檻の外の花

 エレベータのドアが開き切るより先に、いつものように体を滑り込ませるようにして事務所へと足を踏み入れた彼女は、カラスバと視線を合わせて、ぱっと花を咲かせるように笑う。そのまま挨拶のために開いた口を、しかし彼女は慌てたように両手で塞ぎ、その中に小さなくしゃみをひとつ落とした。

「すみません」
「いやそれはええ。風邪か?」
「ちょっと寒いところにいたもので」

 ミアレシティで寒いところといえば、ワイルドゾーン拡大に伴い、何故か積雪が止まなくなったあの公園を置いてほかにないだろう。申し訳程度の防寒として、いつものエムゼット団のロゴが入ったジャケットではなく、一回り分厚いものを羽織ってはいるが、下はいつもの通気性に優れたワイドパンツだ。風邪を引きに行っているようなもの……のように、カラスバには見える。しかしこんな服装で雪の積もった公園を駆け回ってもなお、くしゃみひとつで済んでしまうのが彼女だ。華奢な体躯からは想像もできないほどの、基礎体力の底知れなさを思って苦笑する。

「あの、奥のバトルエリアを借りてもいいですか?」
「いやオマエ、バトルより先に体あっためとかなあかんやろ」
「そうなんですよ」

 にっこり笑って彼女はカラスバのデスクの奥、ポケモンを出すための空間に足を踏み入れる。ポケットから取り出したハイパーボールをえいっと投げた先、現れた大きな体躯にカラスバは目を見張った。彼女が「因縁の相手」としてカラスバにも幾度となく話していた存在、ずっと恐れていたはずの相手、カエンジシ。一般的な体より一回り以上大きなオヤブン個体だ。
 その眼光は鋭いものでこそあったが、ワイルドゾーンで群れを率いていた頃の殺気は、もうどこにも感じられなかった。

「ごめんね、ワタシ冷えちゃって。ちょっとの間、傍にいてもらっていい?」

 そう尋ねた彼女に応えるように、カエンジシはその場に腹をぺたりとつけて、前脚を内側へ畳みこむようにした。頭をゆっくりと下げて、青い目を細めて、すっかり落ち着いてしまったその雰囲気は、大きさを度外視すればイーブイやニャスパーと大差ない。つい先日までメスのカエンジシたちを率いて彼女と命の取り合いをしていたとは思えないほどに、二者の間に流れる空気は温く、穏やかだった。
 彼女は足を投げ出す形で白砂の上にぺたんと座る。柔らかく揺れるカエンジシのたてがみ、その熱に両手をかざしつつ、カラスバの方をくるっと振り返った。

「一緒にどうですか? あったかいですよ!」
「っ、はは……」

 悪夢に見るとまで言っていた、ワイルドゾーンの強敵、オヤブンカエンジシ。そんな相手とまで絆を結んでしまうのだから本当に末恐ろしい話だ。
 カラスバは彼女の右側、一人分ほど距離を取ったところに腰を下ろした。右膝だけ立てる形で、左足は彼女に倣って白砂の上へ投げ出す。敵意を示した際のカエンジシ、そのたてがみの熱は摂氏二千を超えるとも言われるが、彼女へ完全に心を許した今は、眠くなりそうな心地よい温度で静かに揺らめくばかりだ。

「おめでとさん。ようやったなぁ」
「ありがとうございます! 因縁の相手でしたからね、ゲットの喜びもひとしおですよ」
「せやろな。もうある程度育てたんか?」
「もちろん! 確かめてみますか?」
「オマエがあったまってから相手したる。覚悟しとき」
「やった!」

 本当に恐れ入る。本当に、この鬼才には敵う気がしない。どれだけ鍛錬を重ねたとて、おいそれとは並ばせてくれないのだろう。
 もちろん、諦めるつもりは更々ないが。

「オマエほんまおもろいな」
「おもろい、かなあ」
「おもろいおもろい。来る度にこっちを驚かせて、楽しませてきよる。飽きる暇があらへん」
「!」

 機嫌よくにっこりとしていた彼女の顔が、さらに一段階明るくなる。連日の寝不足が故に、その顔色は決して良いものではないのだが、それでもこうしてぱっと笑った瞬間は、誰よりも元気に、健康的に見えるのだから不思議だ。ああ「咲いた」と、花には全く詳しくないにもかかわらず、事あるごとにそう思ってしまうから、本当に不思議だ。

「よかった! アナタも楽しいんだ!」
「そうやなかったら早々に追い返してるやろなあ」
「ワタシばっかり楽しませてもらってるのかと!」

 そんなわけあるかい、と語気を強めて言いそうになる。しかしそういえば「おもろいな」とは幾度となく口にしてきたものの「楽しい」と明言したことはなかったかもしれないな、とカラスバは思い直した。
 そして、そんな言葉を出し惜しむような半端な覚悟で、彼女をここに招いてはいないつもりなので。

「楽しい。楽しくなかったことなんてあらへんよ」

 もう、さも当然のように告げてしまうしかない。

「わぁ」
「わぁてなんやねん」
「いや流石に言葉なくなりますって、そんなストレートに言われると!」
「言葉にしとかなオマエは分からんみたいやからな。たまにはサービスしとこ」
「サービスしとこでワタシの心臓握り潰しに来ないでください!」

 あのカエンジシの群れに単身飛び出せるような強心臓が、カラスバの言葉ひとつで潰れるはずがあるまい……と思うのだが、彼女の顔色を見るに、まあ少なからず「効いて」はいるのかもしれない。

「ワタシたち、相容れないんじゃなかったっけなぁ」
「せやで。どうせ相容れんのやから、不安にならんように言葉くらい尽くしたる。当然やろ」
「いや待って、覚悟決めすぎですって! ねえ置いていかないで、ワタシまだその境地に行けてない!」
「へえ、つまりオマエはまだオレに出し惜しみしてる言葉があると。そら初耳や、いつ聞けるんやろなぁ」

 サビ組が今の形で在り続ける限り、エムゼット団と日向で交わることは絶対にない。この状態で一線を踏み越えることは、どちらにとっても致命傷になる。我が身の可愛さ故に、仲間やミアレシティへの愛故に、二人は相容れないまま、繋ぐ名前さえ持たないままで。
 気に入ったものは手元に置き、逃げられないよう閉じ込めておかねば気が済まない……という、決して良いとは言えない育ちに由来した、どうしようもない気質。それを押し殺してまで、カラスバがお利口に彼女の隣に在るのは、まあそういう理由からだ。そんな窮屈な日々に長く耐えられるはずがないのにと、覚悟を決めた自分を呪ったことだってあった。

「もう少し時間を下さい。ワタシ必ず、アナタの覚悟に相応しい言葉を言える人になってみせる!」

 ただまあ、そんな苦痛も少し前までの話。だって檻の外で咲く彼女はこの通り、あまりにも綺麗なのだ。閉じ込めてしまっていては絶対に見られなかった輝きを、彼女が三日と空けずに笑顔で持ってきてくれるので、カラスバはもうずっと、ずっと楽しいのだ。

「おおきにな。でもゆっくりでええ。オマエの分までオレがずっと覚悟決めとくさかい」

 この鬼才の心臓に触れる権利、その花を咲かせる権利がカラスバに、カラスバにだけあるのなら、それは少なからず気分のいいものだ。他には何も要らないと思えてしまうくらいに。

2025.10.30

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