手の中の蕾

※アンジュ鎮圧後、瓦礫撤去作業の期間があったとしたらこんな風かもしれない

 彼女が倒れた、という報せは、無理をせず適宜休憩を挟むようにという注意とともに、同じ現場で瓦礫の撤去作業をしていたカラスバのところにもすぐ届いた。長時間の作業で汗ばんでいたはずの背中が、急速に冷える。まるで氷の塊を落とされたかのような心地だった。「向かわれますか」と尋ねてきたジプソの提案を、しかしカラスバは「アホぬかせ」と一蹴し、何事もなかったかのようにサビ組たちへの指揮を再開した。
 作業の中心地からやや距離があるサビ組のところまで報せが届くのだから、近くにいたほかのエムゼット団のメンバーや、クエーサー社の敏腕秘書が、既に然るべき対応を取っているはず。そこに今更、サビ組のボスが駆けつけたところで何の意味があるというのか。
 彼女のためではなく自分のためだけの行動を、この極限状態の場で取るつもりはなかった。顔を見て様子を確認したいこちらの気持ちなど、今は捨て置くべきだ。完全な復旧を今か今かと待つ、ミアレシティのためにも。

「オマエらも気ぃつけや! 今日はとくに暑いさかい、こまめに水飲むんやで」
「へい! ガブガブ飲ませていただきます!」

 プリズムタワーに秘匿されていた古代の機械の暴走、およびそれに伴う暴走メガシンカポケモンの問題は、エムゼット団やZAロワイヤルの上位ランカーたちの尽力により無事解決した。しかし荒れまくったミアレシティの中心部を一日や二日で綺麗にするなんて、いくらポケモンの力を借りたってどだい無理な話。メディオプラザ内、および周辺の片付けや整地のために、クエーサー社が中心となって、ポケモンたちとともに休まず働き続けているのも、尤もなことだ。そして、様々な思いでミアレの街をこよなく愛する上位ランカーたちが、再びこの場所に集って協力体制を取り始めるのも至極当然の流れだったと言えよう。
 あの子。セイカ。最強の名を欲しいままにするトレーナー。僅か十日余りでZAロワイヤルの頂点に上り詰め、伝説のポケモンとともにこの街さえ救ってみせた、鬼才の少女。
 彼女もまた、この場所の復旧のために連日顔を出していた。タフすぎるポケモンたちとともに精力的に作業を進めていたことは、この場に集まる誰もが知っている。何時に顔を出しても、日中はずっと彼女の姿があった。いつ休んでいるんだ、とサビ組の連中が首を捻る様子を、カラスバも何度か目撃していた。
 だが彼女を監視していたことのあるカラスバは知っている。彼女は、休んでいない。文字通りまったくもって休めていない。誰もが羨むバトルの実力、身体能力、勘の良さ、カリスマ。そうしたものすべてを欲しいままにしながら、器用に楽しそうに何もかもをこなしながら……彼女は休むことだけが、強烈に下手なのだ。

「あの! カラスバさん!」
「ん、ちょい待ってや! 今そっち下りるさかい」

 下から掛けられた声に視線を落とせば、鮮やかな青いパーカーを着た、見覚えのある姿が真っ直ぐにカラスバを見上げていた。ガイの借金の件でサビ組に顔を出し、実に毅然とした態度で立派に応対した少女、デウロだ。
 エムゼット団の作業場所はサビ組のところからかなり離れているはず。何か緊急の連絡だろうかと思い、カラスバはペンドラーの力を借りつつ瓦礫の山をやや強引に滑り下りた。

「待たせたなぁ。で、要件は?」
「えっと、これ、エムゼット団の作業報告書です。マスカットさんに渡してくれませんか?」
「……は?」

 思わず間の抜けた声が出てしまった。それもそうだろう。クエーサー社の敏腕秘書、マスカットがいる本部のテントは、ここからプリズムタワーを挟んで正反対の位置にある。対してエムゼット団の作業場所は本部のテントのすぐ傍。ぐるりとメディオプラザの外周を走ってカラスバを呼びに来るのは明らかに時間と体力の無駄になる。わざわざこんな遠回りをする理由など、本来ならあるはずもない。
 そう、本来なら。

「これはエムゼット団の総意じゃなくて、あたし個人の勘で勝手に動いているだけなんですけど」

 そう前置きしてから、デウロは手元の書類の束をずいとこちらへ差し出してくる。

「でも、あなたからの言葉が、セイカには一番響くと思うんです」

 この少女にとって、カラスバの存在はある種のトラウマであるはずだ。できれば極力顔を合わせたくない存在のはず。カラスバに全く怯まないあの子の方が異質なのであって、一度ああいう場で凄んでしまえば、デウロのような反応になるのは至極当然のことだ。
 そんな少女が最も避けたかったはずのルート。カラスバに頼る、ということ。そんな危険な選択を取らせるほどに、デウロから見た今の彼女は、まあ色々とよくないのだろう。

「誰が無理するなって言っても、休んでって言っても、響いてないんです。このままじゃ、ミアレシティが元通りになる前にセイカが潰れちゃう」

 くしゃっと泣きそうに顔を歪めたデウロの手の中の、書類。これを受け取ればここでの契約は成立する。引き受けることはもちろんやぶさかではない。ただ。

「まあやってみよか。ご期待に沿えるかどうかは分からんけどな」
「っ、ありがとうございます!」
「ジプソ! 今からちょっと抜けるさかい、若いもんのこと見たってや」
「かしこまりました! お気をつけて!」

 ジプソの大声での快諾が上から降ってきたのを確認してから、カラスバは書類を受け取った。ぱっと表情の明るくなったデウロに、カラスバは少し迷ってから、僅かに口角を上げて頷く。

「おおきに」
「……なぜあなたがお礼を?」
「そらオレからは行かれへんかったからなあ」

 背を向ける。アスファルトを蹴る。駆け出す。書類が飛んでいかないよう小脇にしっかりと抱え直しつつ、減速しないまま走った。テントまでそれなりの距離があるが、まあこれくらいなら休憩を挟まず走り切れるだろう。
 隣で作業をしていたジャスティスの会は、間の悪いことに丁度休憩に入ったようで、疾走するカラスバは会員たちからの視線を一身に受けることとなった。「素晴らしい走りっぷりです!」と爆音で飛んできたシローの賞賛に、足を止めないまま、カラスバは左の拳を高く掲げて応えた。もう半ばやけっぱちといったところだ。
 本部のテントへ駆け込み、やや弾んだ息のままにマスカットへと声を掛ける。デウロよりもカラスバよりも大人であるマスカットは、カラスバの様子と、カラスバが持っているはずのない作業報告書を見て、もうすべて察したとばかりに口元を緩ませた。

「カラスバさんもお疲れでは? ヌーヴォカフェの隣のテントを休憩所兼、即席の医務室にしているので、よければ休んでいってください」

 とまあ、ご丁寧に彼女の居場所まで伝えてくれる有様だ。そのサングラスの下で目がどんな風に細められているのかについては、もう考えたくもない。

「せやったら、お言葉に甘えてお借りしますわ」
「ええ、きっと喜びます」

 最後にそれを言ってしまったら台無しだろうと、カラスバは苦笑してテントを出た。ヌーヴォカフェの二人の姿が見えないことに安堵しつつ、テントの入り口、中と外を隔てる布に手を掛けた状態で止めてから……一度だけ息を細く長く、静かに吐いた。
 カラスバの言葉が最も響く、と伝えてきたデウロの顔を思い出す。引き受けることはもちろんやぶさかではない。彼女の元へ駆け付ける口実を作ってくれたことについても感謝の念に堪えない。ただ……デウロの期待に応えられるかどうかについてはもう、笑ってしまうほどに絶望的だと言わざるを得ない。
 やってオマエはどうせ、オレの説得なんか聞かへんのやろ。

「っ!」

 テントの布を捲る音か、一歩踏み出したときの靴音か、それとも服の擦れる音か。どれが引き金になったのかは分からないが、簡易ベッドに横たわっていたはずの彼女はバネのようにぴょんと跳ね起きてこちらを見た。少し休んだからだろうか、カラスバが予想していたよりは、まだ顔色はマシだ。顔色は、マシだ。

「っはは、誰やと思うたんや」
「オヤブンカエンジシに気付かれたかと……」
「そらえらい散々な悪夢やったなぁ」

 だが表情がよくない。カラスバまで何故か傷付いてしまいかねない、壊滅的によくない表情だ。彼女にしては珍しい……本当に珍しい、分かりやすい絶望を貼り付けた顔だ。叱られること、見限られることに怯える顔だ。居場所を失うことに怯える顔にも、見えた。
 なんでや。なんでオマエがそんな顔せなあかんのや。まるで昔の、オレみたいに。

「ごめんなさい!」

 挙句零れ出た言葉さえ、昔の、居場所がない頃のカラスバのようなそれで、いよいよ居たたまれなくなる。そもそもそれは何に対する謝罪だ。倒れたことか。作業に従事できていないことか。周囲の人間の手を借りてしまったことか。弱った姿を見せたことか。
 あまりのことに目の前が真っ暗になる。彼女の顔をこれ以上直視していられない。彼女にこんな顔でこんな謝罪をさせたミアレシティが、そんな街にしかできなかったカラスバ自身が、もう許せない。
 だが。

「遊びにおいでって言ってくれたのに!」
「……は?」
「ワタシ、本当に嬉しくて、必ず行きますなんて大きな言葉で約束したのに! 一度も行けてない!」

 悲痛な面持ちで叫んだ彼女の言葉が、あまりにカラスバの予想の斜め上を行くものだったので、カラスバは逸らそうとしていたはずの目線を彼女に戻し、ただただ唖然としてしまった。
 何を言うとるんや、と言いたいが、何を言わんとしているのかだけは分かってしまうために益々ややこしい。つまり彼女の謝罪は、カラスバがかつて口にした「また事務所に遊びにおいで」に、応えられなかったことに対してのものである、ということだ。
 彼女はあの時、あの言葉にたいそう喜んで「必ず行きます!」と告げていた。社交辞令でなく、本当にサビ組の事務所へ足を運ぶつもりだったのだろう。その約束を果たせなかった理由だって、彼女がカラスバを避けていたとかサビ組との縁を切りたくなったとかではなく、単に忙しすぎたからだ。分かっている。
 そしてもちろん、彼女が心苦しく思う気持ちだって分からなくはない。分からなくはない、のだが。

「そっちかぁ」
「えっ! まだワタシに余罪が!?」
「いやいや、そんなことあらへん。オマエはなんも悪ないで」

 なんだ、とカラスバは安堵する。居場所を失うことに怯えて、役に立たなければと焦って、疲れた体に鞭打って働きまくっていた……とかいうわけではなかったようだ。すなわち先程の世界の終わりを見たような顔は「ミアレシティのみんなに」見限られて居場所を失うことを恐れる顔ではなく「カラスバに」見限られることを恐れる顔だった、ということ。
 であれば簡単な話だ。そんなことは天地がひっくり返っても起こるはずがないのだから。むしろ怯えなければいけないのはこちらである可能性まである。

「なんも……ってことは、ないでしょう。約束も破ってるし、こんなところでサボってるし」
「せやなぁ。なんでサボらなあかんようになったんやろか。不思議やなぁ」

 からかうように告げれば、彼女はくたりと下げた眉のまま、苦しげに笑顔を作りつつ静かにカラスバを見る。まだ恐れが残っているな、と思ったので、カラスバは彼女の方へと近付き、傍の椅子に座ってから努めて柔らかく口角を上げた。

「倒れたって連絡があったで。どこも打ってへんのか」
「それは大丈夫です! ワタシにはゲッコウガっていう、倒れた弾みで瓦礫の山の頂上から落下しても、かっこよく受け止めてくれるスーパーヒーローがいましてね?」
「倒れたどころの騒ぎとちゃうやんけそれは……」
「あっ」

 口が滑った、とばかりに目を丸くして、彼女は右手で口を塞ぐ。何事もなかったならよかった。本当によかったのだが、流石に落下騒ぎを起こしたとあってはそのままにはしておけない。だが何と言えばいい。どんな言い方なら、どんな言葉なら。

「……」

 いや、違う。デウロは言っていたではないか。誰の「無理をするな」も「休みを取れ」も、響かないと。カラスバよりもずっと話術に長けた人間だって彼女の周りにはいるはず。にもかかわらず、誰も彼女を休ませることができていないのだ。言葉では、説得では、この最強の名を欲しいままにする少女の防壁は瓦解しないのだ。
 同じやり方をしてはいけない。あの少女がカラスバに伝えてくれた情報を、無駄にしてはいけない。

「寝ていないことへの弁明を、してもいいですか?」
「っふ、ええで。どうぞ?」
「いやだって、野生ポケモンは増えるばっかりじゃないですか! あんまり強いポケモンたちが我が物顔で暴れ回っていると街の皆さん怖がるでしょ。だから頻繁にポケモンたちと一緒に顔を出してけん制しておく必要があって」
「せやなあ」

 カラスバは頷く。

「ポケモン研究所のモミジさんからポケモンの調査も頼まれているのに、日中は作業でほとんど進められていなくて、取り組めるのは夜しかないし!」

 また頷く。

「皆さんこんな状況だからやっぱり不安なのか、バトルゾーンでのしのぎの削り合いも、なんか苛烈になっちゃってるみたいで。パトロールしておかないと、怪我人が出そうだし。まあ皆さんをボコボコにして回るのも楽しいので全く問題ないんですけど」

 頷く。

「そうやって夜通し走り回っているとたまに、珍しい色のポケモンに出会えたりするんですよ。昨日は紫の蕾をしたスボミーがいたんです! 嬉しい発見や出会いが、毎日いくつもあって」

 もう一度頷く。何かに気付いたかのように彼女は息を飲む。視線が、左右にぶれる。

「今日は、夜明け前にここへ来ました。みんなが来るまでベンチで仮眠していようと思ったんですけどね。でも……」
「でも?」

 続きを乞うカラスバの音を受けて、彼女はいよいよ、耐えきれないといった風に乱暴に二度、三度と瞬きをして、くしゃっと顔を歪めた。涙が零れるようなことはなかったが、それでも「響いた」という確信を得るには十分だった。

「プリズムタワーの隙間から差し込む日差しが……宝石みたいにキラキラしていて。宝物を、っ、見つけた気分に、なって……」
「そら綺麗やったやろなあ。オレも見たかったわ」

 努めて穏やかに、静かに相槌を打った。絶対に怯えさせてなるものかという、慎重を極めた同意の言葉だった。
 彼女の弁明は……最後の方はもう、消え入りそうな音になっていて。少しでも掛ける言葉を間違えれば、わっと泣き出してしまうのではないかと思うほどに、その音は不安定で。けれども彼女は最後にカラスバの「見たかった」を受けて、ふわっと顔を綻ばせたのだ。

「カラスバさんが、あの時一緒にいてくれたら」
「……」
「とっても幸せだったろうなあ」

 彼女は……自分が心から望んで、心から楽しんでやっていることを「無理をしている」という言葉でひとまとめにされることを拒んでいたのかもしれない。彼女の生き甲斐になってしまっているその全てを、どれ一つとして否定されたくはなかったから、誰の言葉も聞き入れられなかったというだけなのかもしれない。彼女は本当に、ただ……ただ、ミアレシティを好きになりすぎていた、という話で。
 ただまあ、そこの追及をこれ以上するのは野暮であるように思われたため、一先ずカラスバはこれを、仮の答えとして置いておくことにした。きっとこれからの日々の中で、いつか明らかになることもあるだろう。

「まあ要するに、休み方が分からんのやな」
「! そうなんですよ! やりたいこともやるべきだなって思うことも毎日山ほどあって! 嫌なことがあれば逃げるようにベッドに潜り込むこともできたんでしょうけど、もうこの街でやること全部楽しいし!」
「いやオマエ……睡眠は逃避やなくて生命活動においての義務やろが」
「そうなんだぁ」
「頼むでほんま……」

 苦笑しつつ最低限の説教だけやっておく。ちゃんと彼女に響いたことも、確認できた。
 さあ、問題はここからだ。

「ごっつ忙しいセイカに、こないなこと頼むんも気が引けるんやけどな」
「頼み事?」
「オマエにしか頼めんお仕事や。報酬もある。引き受けてくれるやんな?」

 休み方を知らない彼女が、倒れたり、落下したり、体調を崩したりといったことが極力起きないようにしたい。それはもうカラスバのみならず、彼女を知る者全員の総意だろう。そのためにはもう休んでもらうしか、大人しく眠ってもらうしかない。ただ睡眠を押し付けて彼女のしたいことを外へ押し出すやり方では、きっと躱されてしまう。

「お仕事いうても簡単なもんや。オレが呼び出したタイミングですぐにサビ組まで来て、事務所のソファで二時間、寝てくれたらええだけ」
「に……せ、せめて一時間になりませんか?」
「サビ組に値切りをもちかけるとはええ度胸やな」
「……報酬は?」

 ならば彼女の睡眠を対価にして、彼女にとって一等、魅力的なものを買わせればいい。
 そして幸いなことにカラスバには、彼女が最も求めるもののひとつを差し出せるだけの力がある。

「オレとの真剣勝負。前払いで」

 彼女の大好きなもの。強者とのポケモンバトルで勝利をもぎ取ること。カラスバの顔を、歪ませることだ。
 果たして大きく目を見開いた彼女は、ぱっと笑顔になって、ぐいと身を乗り出して、カラスバの左手を両手でがしっと掴む。胸元にぐいと引き寄せて、強く祈るように握って、カラスバの想定した通りの言葉を高らかに告げるのだ。

「末永くよろしくお願いします!!」
「こちらこそ」

 本当にこの「お仕事」が上手くいくかは、実際にやってみなければ分からない。分からないが……一先ず、カラスバに頼み込んできたデウロへの義理は果たせたと思うことにしよう。
 ちなみにその「末永く」は、近くにいたカラスバが、思わず耳を塞ぎたくなってしまうほどのとんでもない声量だった。どれくらいのとんでもなさだったかについては。

「おいこら! プロポーズなら他所でやれ!」

 と、ヌーヴォカフェのグリーズがテントを豪快に捲り上げつつ、そのように言い捨てていく程であった、とだけ言っておこう。グリーズ以外に、近くに人がいなかったことを祈るばかりだ。

「あとオマエのフラフラ度合いというか、そろそろ限界やなってところを見極める目的で、前みたいに監視させてもらうで」
「ああそれはもちろん! いいですよとは流石に言えないけど、全部黙認します!」
「睡眠ごっつ渋っておいて、監視は二つ返事とか……オマエほんまおもろいな」
「アナタに見てもらえるなら、背筋も伸びるってものです。ところで、あの……」

 そこで言葉を区切った彼女は、カラスバを……正確にはカラスバの頭をじっと見つめて僅かに首を捻った。

「寝癖ですか? なんだか髪が……珍しい跳ね方をしてる」
「そらここまで走ってきたからやろなあ」
「走ってきた!? それは、えっと、うーん……ご足労やんな?」
「っふ、ははは! せやで。セイカのためにご足労したったわ」

 カラスバの口調を真似つつの労いに、愉快な心地にさせられてしまった。カラスバが噴き出すように笑ったのを見て、彼女も花を咲かせるようにぱっと顔を綻ばせた。世界の終わりを見ているかのような表情は、あの怯え切った目は、もう何処にもなかった。

「ほら、もうちょっと眠りよし」
「あ、待ってください」
「なんや」
「ワタシが眠るまでそこにいてくれますか? 人の気配があっても眠れるかどうか確かめておきたいんですよね。ほらだってサビ組の事務所のソファに二時間転がって結局眠れませんでしたとかだとちょっと残念でしょ? 予行演習っていうかまあそんな感じの」
「分かった分かった」

 早口で捲し立てた彼女を宥めるように、カラスバは苦笑しつつ快諾する。それを受けて、彼女は安心したようにベッドへと横たわった。寝転んだ姿が想定以上に幼く見えてしまい、また昔のカラスバの面影が、勝手にぬっと顔を出して、そこへ重なる。

「……」

 椅子を傍につけて、近くに座り直して、彼女の左手をそっと握った。あれっ、と声を零した彼女の青白い顔に、ほんの少しだけ赤みが差した。

「ごめんなさいワタシかなり疲れてて頭が回ってないみたいなんですけど、もしかして、眠るまで手を握っていてくださいとかそんなこと口走ったりしました?」
「安心し。そないなこと言うてへん」
「そっか、じゃあアナタが繋ぎたかっただけかぁ」
「よう分かっとるやん」

 彼女は、過去のカラスバではない。彼女の顔はもうあんな風に歪まない。過去の自分は、もうここにはいない。にもかかわらず、昔のカラスバが求めていたかもしれないもの……一人で眠るいつかの夜に、欲しがっていたかもしれない誰かの温度……を差し出したくなったのは、もう完全にカラスバのエゴだ。彼女のためではない、カラスバ自身のため。
 でも、彼女がふふっと笑ってくれたから。声を出すことなく動いた口は、カラスバの都合の良い幻覚でないのなら……「うれしい」と、言っているようにも見えたから。

「カラスバさん、交渉をしませんか……」
「交渉?」
「ワタシが真剣勝負に勝ったら、追加でこれも欲しいんです」

 これ、と小さく告げられたものが、二人繋いだ手を指していると気付いたカラスバは、ゆっくりと力を込め直して「これ?」と尋ねる。

「そう、握手……」

 返事のための言葉に迷っている間に、彼女からは小さな寝息が聞こえ始めてしまった。いや言い逃げは狡いやん、と苦笑しながら、カラスバはくしゃっと右手で頭を抱えた。
 この手を受け入れられるだけで十分だったのに、唐突に顔を出して、勝手に彼女へ宿ってしまった過去の自分の面影を、手を握ることで満足させて、さよならできればそれでよかったのに。
 そんな風に願われてしまったら、喜ばれてしまったら、もう過去とか今とか関係なく、カラスバのすべて、もうすべて救われてしまうしかない。

「ええで、いくらでも繋いだる」

 白熱した真剣勝負の後には、拳を突き合わせて互いの健闘を湛えるのがミアレシティ流だ。それよりも少し、ほんの少しだけ近い「これ」を交わすこと。それはとてもささやかで、とても決定的な変化であるように思われた。
 二人の間に起こる変化。移り変わる、何らか。
 その正体にはきっと、次に握手をしたときに気付けるはずだ。


2025.10.29

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