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ブロッコリーを突き刺してフォークごと差し出すと、彼はそれを受け取り躊躇いなく口に運んだ。
次はニンジン、その次はパプリカ。躊躇うことなくカラフルな色の野菜を次々に咀嚼する彼だったが、トマトを口に含んだところでその顔色が変わった。

「苦手ですか？」

「いや、面白い味だ」

私にとっては馴染みの深すぎるその野菜を「面白い」とする彼の感性に少しばかり驚く。
熱を通したトマトは酸っぱさの中に仄かな甘みがある。もしかしたらその対比的な味わいを指して「面白い」としたのかもしれない。
「気に入った野菜はありましたか？」と尋ねれば、逆に彼の方から「お前の好きなものは？」と訊き返されてしまった。
基本的に野菜の好き嫌いはないのだけれど、と思いながら、少しばかり考えてお気に入りを絞り出す。

「私はトマトとヤングコーンが好きですよ」

「……ヤングコーンとはこれのことか。味はしなかったが」

「そ、そんなことないですよ！」

彼は自分のピザの上に残っていたヤングコーンをフォークで突き刺し、私の方へと渡してくれた。
口に含んでから、どちらともがピザを食べるのにフォークを用いているというこの状況がおかしいものに思われてならず、肩を震わせて笑った。
けれど同時に、今私が持っているフォークがどちらのものだったのかを完全に忘れてしまっている自分に気付き、少し、ほんの少し焦った。
このフォークは元々、彼のものではなかったか、いや、私が口に含んだのだから私のものだっただろうか、けれど……。
そんなことを考えながらヤングコーンを飲み込む。奇妙な焦りと照れが冷静な思考と正常な味覚を奪う。

「……本当だ、味なんてしないですね」

貴方のせいですよ、とは言わない。そうだろう、という彼の得意気な笑みを遮りたくはなかったからだ。
野菜を失くし、溶けたトマトとチーズの味だけとなってしまったピザを、二人で手分けして同じ枚数だけ食べた。
野菜のないピザは、しかしそれはそれで美味しく思われたのだから、やはり面白い。

＊

会計を済ませてから外に出れば、夜が何もかもを飲んでいた。
住宅街や店先の明かりから少し遠ざかれば、足元を照らすものは何もない。閉じた視界で耳を穿つ、大きな波の音が不安を煽った。
けれどモンスターボールから飛び出したミズゴロウは、まるで全てを見通しているかのように、迷いなく軽快に夜の砂浜を駆ける。
それに続くように私も靴を脱ぎ捨て、暗がりに足跡を付けて歩く。足跡が付いているのかさえよく解らないほどの暗闇であったけれど、それでもミズゴロウの気配を追って進んだ。
小さな彼は驚く程に頼もしく、このままどこまでも進んでいけるような気さえした。先程の不安をなかったことにして、私は駆け出そうとした。

「溺れたいのか？」

けれどそうした私の勇敢な歩みは、彼の目にはただの無謀に見えてしまったらしい。
強く腕を掴まれ、振り向けば、暗闇でも判る程に彼は呆れていた。これ以上この人を振り回してはいけないと感じ、素直に謝れば、虚を突かれたように彼は息を飲んだ。

「今日は沢山振り回してしまってごめんなさい。疲れましたか？」

「いや、……ああ、そうだな。とても疲れた」

「顔に立派な勲章まで貰ってしまいましたものね」

ああ、駄目だ。今日のことを口にすれば、結局この人を疲れさせてしまう。
つまりはそうした慌ただしく忙しない時間しか過ごして来なかったのだと、認めればいよいよ居た堪れなくなった。
楽しかった。途中から時計を見ることさえ忘れていた。けれど時計などなくとも日差しや空の色が時の流れを鮮やかに示してくれた。
夕日が鮮やかに私の目を穿ち、あれだけ大きかったピザが二人の胃に収まり、夜の闇を裂くように歩いて、肌を刺す風が涼しく感じられるようになり……。
そこでようやく私は悟ったのだ。「この人と一緒にいると、長い筈の一日が一瞬になる」のだと。
そんな、悉くおかしな事象を見つけてはまた笑った。この人といると永遠さえも一瞬になる気がした。そして急に、恐ろしくなった。

この人と一緒にいると、一日が一瞬に、永遠さえも瞬く間に過ぎていく。この悉く歪な理に従うなら、私は、この人から離れるべきだったのだろう。
でなければ私はあっという間に死んでしまうから。でなければ彼をあっという間に時が殺してしまうから。
ではこの人を想いつつ永い時を過ごすにはどうすればいいのだろう。どうすれば彼と一番多く言葉を交わすことが叶うのだろう。
考えても答えなど出そうになかった。この難題の解はきっと、誰に教えを乞うたところで見つからない。誰も教えてくれない。

「長生きしてくださいね、ダークさん」

「……は？」

「貴方ともっと沢山、美味しいものを食べたいんです。貴方と行きたい場所も、話したいことも、山のようにあります。
それを全部済ませないと、私、貴方を離してあげられそうにないんです」

一歩下がって、距離を取った。たった一歩、けれど暗闇の中でこれだけ離れてしまえば、もう彼の顔は見えなくなった。
彼からは私が見えているのかもしれない。私のみっともない顔も見られているのかもしれない。
だから念のためにと私は背を向けた。声を波の音が飲み込んでくれれば尚、よかった。

「人間って90年くらい生きられるんです。長いでしょう？でも、まだ足りない気がするんです。私は何度か生まれ変わって、貴方に会いに行かなきゃいけない気がする」

「……そんなことができるのか？」

できるといいですね。そう告げる代わりにポケットからボールを取り出して投げた。
クロバットに飛び乗って、もう一匹のポケモンに乗るようにと促せば、彼は何の躊躇いもなくひょいとその背に身体を預けた。
膨れ上がり過ぎた想いが私の首を絞めた。息苦しいとさえ思った。

私達を乗せたポケモンは、あっという間にセイガイハの上空を飛び去った。
ソウリュウシティに至るまでの道路や町はとても閑静で、明かりが殆ど見つけられず、どこを飛んでいるのかさえ判別できないような暗闇が続いていた。
けれどその闇をものともしない明るさで、燦然と輝くものが私達の上にはあったのだ。彼の名前を呼び、「上を見てください！」と告げれば、彼も同じように満天の星空を目に映した。

「どう見えますか？」

彼はしばらく沈黙を貫いていたけれど、やがてその表情を変えた。変えたことだけは、空気を伝う気配で解ったのだ。
夜が深すぎて、彼がどんな顔をしたのか、私は見ることが叶わなかったのだけれど。

「綺麗だと思う。だが他の感情が見つからない。夕日よりも「悲しい」とは思えないし、伸びるチーズのように「面白い」とも思わない。
何も感じていない訳ではない。夕日よりもずっと複雑で、それでいて純粋な美しさだと思う。……だがこういう時にどういった言葉を選べばいいのか、私にはよく、解らない」

見ることが叶わずとも、その、少しばかり上擦ったような声音が、どんな表情で放たれたものであるかなど、推測することは星を見るより容易いことではあったのだけれど。

「……『もどかしい』と言います」

「もどかしい？」

「溢れてくる想いが言葉に追い付いていない時、言葉を上手く見つけられない時、……そういう時に私はよく、この言葉を使います」

その言葉が果たして彼の心を代弁する最善の単語であったのかどうか、確認してくれる人は誰もいない。
だから、合っていてほしいと祈るしかなかった。貴方の思いと私の思いが重なっていますようにと願うしかなかった。
……もうきっと、私がこの人に教えられることなど何も残っていないのだろう。それでも、私にはこの人に伝えたいことが、まだ数え切れない程に残っている。

長い、長い沈黙を、空の強い風が耳元でずっと割き続けてくれた。

いつものセッカシティが見えてきた。この町に私の家はない筈なのに、何故だかただいま、と言いたくなった。
セイガイハシティよりは涼しい夜風が頬を掠める。干上がる寸前の薄い水溜まりに足を下ろす。ぱしゃぱしゃと切ない水音がする。
今日はありがとうございました、と頭を下げる。とても楽しかった、と告げて微笑む。また行きましょうね、とは何故か、言えなかった。
俯いていた私の名前を彼が呼ぶ。はい、と反射的に大きく返事をして顔を上げれば、彼は今まで見たことのないような表情を浮かべた。

「お前に桟橋から突き落とされた時も、海に潜り続けるお前の手を握った時も、夕日を見ていた時も、野菜を順番に口にした時も、星を見ていた時も、今も、ずっともどかしい。
先程、お前の言っていたことが今なら解る。このもどかしさを取り払うためにかける時間とするには、人の一生はどうにも短すぎる」

私だって、私だって足りない。短すぎる。
貴方が隣にいると永遠が一瞬になるのに、その永遠さえも私達は手に入れられない。

もどかしい。私は泣いた。彼があまりにも幸福そうに笑っているから、私は泣くより他になかったのだ。
言いたいことは沢山あったのに、喉を嗚咽が塞いでしまったから、言葉さえも紡ぐことができなかった。