持っていた小さな絆創膏では彼の傷を覆えなかったため、私達はポケモンセンターに逆戻りし、ガーゼと医療用のテープを譲ってもらった。
「随分とやんちゃをしたんですね」と笑うスタッフさんに、彼はこの上なく渋い顔をしていた。
そんな彼の頬の消毒を済ませた後、ガーゼで止血し、テープを貼った。
いくら彼が蝋のように白い肌をしているとはいえ、大きな白いガーゼとテープはやはり目立つ。しかもそんなやんちゃ極まりない怪我を彼が、大人の男性が負っているのだ。
……ああ、でもきっと彼はこんな怪我など負ったことがなかったに違いない。きっと初めてなのだ。ポケモンに引っかかれるのも、子供のような怪我を負うのも、全て。
だからだと思うことにした。先程からずっと彼が笑っていて、しかもその笑顔がどこか歪な形をしているのは、そういう理由なのだと、言い聞かせればそれは私の中で真実になった。
ガーゼとテープの入った小箱を返す際、ついでとばかりに「この町でオススメの食べ物屋さんはありますか?」と尋ねれば、
こういった質問をするのは私だけではないらしく、彼女は「お任せください」と微笑みながら、幾つかの店のパンフレットを渡してくれた。
「イッシュの方にはこちらのレストランが人気ですね。冷製パスタや夏野菜のピザが美味しいので、もしイタリアンがお好きでしたら、是非どうぞ」
冷製パスタという単語に心が奪われたが、それ以上に気になることがあった。
ダークさんは果たして、ピザというものを食べたことがあるのだろうか。
……そうした、常軌を逸した、けれど彼に限ってはそうとも言い切れないような絶妙な疑問が、泡のように浮かんできた。
「……ダークさん、ピザは好きですか?」
遠回しにそう尋ねれば、案の定、彼は僅かに首を傾げて困惑の色を示した。けれど私はもう衝撃を受けたり、絶望したりはしなかった。
知らないことは覚えればいい。解らないことは教わればいい。そうした未知なる何もかもを、私よりもこの人の方が多く持ちすぎているだけ、それだけの話だ。
スタッフの人にお礼を述べてからそのパンフレットを受け取り、彼にピザのページを見せようとして、……やめた。
どんな料理なんだと尋ねる彼に、「実物を見た方がずっと解りやすいですよ」と誤魔化しの言葉を紡ぐ。
あの大きなお皿に乗せられた丸い食べ物が出てくる瞬間の彼の表情を、私は決して見逃すまいと心に決めた。
ポケモンセンターを出て、暫く北に歩けば、目的のレストランはすぐに見えてきた。
オレンジ色の明かりの漏れるその店内に入れば、夕食時ということもあり、海水浴を終えた観光客のざわめきが耳をくすぐった。
ホテルで宿泊する予定の者、これからすぐに別の場所へと移動する者、此処に住んでいる者、様々な会話が聞こえてくる。
これはかなり混んでいそうだと思ったけれど、テーブルを片付けている間、ほんの5分程度待っただけですぐに4つの椅子があるテーブルへと案内された。
運がよかったのかもしれない、と思いながら何も考えずに席に着く。けれどおかしなことが起きた。彼が座ろうとしないのだ。
まさか自分は席に着ける身分ではないなどと言い出すのではないかと私は少しだけ恐れたけれど、彼が迷っていたのはそんなことではなかったらしい。
両手で空いた席を指差しながら、「私は何処に座ればいいんだ」と困ったようにそう尋ねる彼に、ああ成る程と思いながら私は笑った。
二人に対して4つも椅子があるものだから、残り3つの席のうち、彼は何処に座ればいいのかと迷っていたのだ。彼が悩んでいたのはそんなことだったのだ。
「何処でも、貴方の好きな席に」と告げるのが模範解答であったのかもしれないけれど、私は敢えて「私の向かい側に来ませんか?」と口にした。
彼は特に躊躇う素振りを見せず、さっと私の向かいにある椅子を引いた。
「こういう場合は相手と一つ分、席を空けて座るものなのか?」
「いいえ、決まっていないと思いますよ」
本当はそういうマナーがあるのかもしれないけれど、無学な私はそうしたことに詳しくなかったため、正直に首を振れば、
これまた「では何故私をこの席に?」という、至極まっとうな、正直な問いが彼から返って来た。
「この席だと、貴方の顔を真っ直ぐに見て話ができるから」
「……成る程、大きな傷を作った私を笑うためには、此処が絶好の位置だったということだな」
あれ、違うのにな。そう思いながらも笑いながらメニューを広げる。
ポケモンセンターのスタッフが紹介してくれた冷製パスタとピザのページを探し出し、「こういう料理です」と彼の方を向けて示した。
「……これは野菜か?」
「そうですよ。パンの上にチーズや野菜を散りばめているような……そういう料理です。食べてみますか?」
しかしそのカラフルな写真の下に小さく注意書きが示されていた。
思わずくるりとメニューをこちらに向ければ、「写真は二人前のものです。お一人様でのご注文はハーフサイズになります」という文字が目に飛び込んできた。
……つまり、彼がこのピザを頼んだところで、出てくるのはこの半分のサイズである、ということだ。
満月のように丸いピザが出てくることを期待している彼には、一人分の半月はひどく物足りないものに見えることだろう。
けれど問題ない。幸い、此処には二人いるのだから。
「ダークさん、私もこれにします」
怪訝な顔をする彼に、私は注意書きを示した。そんなことが書いてあったのか、と驚く彼に、だから一緒に食べましょうと笑った。
何も問題ないのだと笑顔で示す。表したい感情は多すぎるのに、私の笑顔はその感情の示し分けができているのだろうかと時折、不安になる。
だから「私もこれが気になっていたから丁度よかったです」と声で示す。誤解を生じさせないように言葉を尽くす。
そうした当然のことでさえも、この人を前にするとひどく、愛しい。
女性のウエイターを呼び止め、注文を済ませた。
丁度別のピザと同時に焼きあがる頃だと伝えてくれたので、待ち時間はそう長く掛からないだろう。
お洒落なグラスに満たされた、キラキラと瞬く海のような水を飲み、熱いお手拭きをヒラヒラと宙に泳がせ冷ましながら使った。
天井でくるくる回るファンを眺めていると、お目当てのものは訪れた。
「ピザのオルトナーラです。パルミジャーノを散らしてありますので、より増した風味をお楽しみください」
よく解らない単語が散りばめられたそのピザが、しかしとても美味しそうであることは直ぐに分かった。写真よりも野菜がずっとカラフルで、見ているだけで楽しい。
歓声を上げる私の向かいで彼は呆気に取られたように沈黙していたので、どうしたのかと窺うように首を傾げれば、「……もっと小さいのかと思っていた」と返ってきた。
確かに写真では料理の様子は解っても、大きさは実物を見なければ分からない。食べきれるだろうかと考えていると、その実物の隣に異様な物体を見つけた。
「……何ですか、これ?」
「……お前が知らないものを私が知っている筈がない」
謎の形をしたローラーだ。車輪を指で摘まめば滑らかに回転するが、これをどう使うのか、そして何のために此処に置かれているのかが全くもって読めない。
彼にも私にも知恵がない状況で、ならば他者からヒントを得ればいいと店内を見渡していると、少し離れたところに座っている家族連れが目に留まった。
父親らしき人物がそれを手に取り、ピザの上でコロコロと転がし始めた。丸いピザを扇状に切り取るためのものだったのだと、ようやく理解して席に着く。
「これでピザを切り分けるみたいです」と告げてから、丸いピザに少しずつ切り込みを入れていく。さく、さくという生地の割れる音が楽しくてクスクスと笑う。
2等分し終えてから、「やってみますか?」と告げてその物体を彼に渡す。
彼は躊躇いがちにピザの表面へ車輪を落とし込んだけれど、そこからは豪快にざくりとたった1回で切り裂いた。
ああ、私と彼とでは当然のように力の差があるのだと、そんな驚きをやはり私は口にする。
この目まぐるしく変わりゆく嵐のような感情を彼に示すのに、表情や仕草だけでは不足が過ぎるのだ。
切り終えてからも、まだ私達には驚きが待っていた。
8等分することに成功したピザを手で掴み取れば、しかしチーズがどこまでも伸びて付いてくる。口の中に収めても、やはりチーズは伸びる一方であった。
「いつになったらこれは切れるんだ」と焦ったように尋ねる彼に、「私にも解りません」と告げて笑った。
伸びて食べきれないチーズをフォークで絡め取り、ゆっくりと咀嚼してから、私は「美味しい」とありのままを口にする。
けれど彼はしばらく悩んでから「複雑な味がする」と首を捻りながら呟いた。
いろんな野菜を使っているからそれも当然のことだと思ったのだけれど、彼が続けざまに口にした言葉が私の好奇心を煽った。
「どれがどの味なのか分かりかねる」
それなら一つずつ食べて貰おうと、私はテーブルの脇に置かれていたフォークを手に取った。
この人の好きなものは見つかるかしら、と、少しばかり浮足立っていた。
2013.8.6
2016.8.28(修正)