彼はポケモンを捕まえたことがないらしい。
空のモンスターボールが何処で手に入るのかすら把握していないらしく、困ったように「どうすればいい」と尋ねる彼に、
私はここぞとばかりに先輩風を吹かせ、「ポケモンセンターの隣にショップがありますよ」と告げてぐいと手を引いた。
「そうか」
ほんの一瞬、一瞬だった。私が何故その変化を感じ取れたのかは解らないが、その時確かに彼の握る手が強さを増した。
私よりもずっと冷たいその手は、期待と高揚の温度で仄かに熱を持っているのだと、そう読んで私は歩幅を大きくした。
子供にとっての「大きな歩幅」に付いてくることなど、彼にとっては造作もないことだと解っていたので、私は容赦なく早歩きでポケモンセンターへの道を蹴った。
彼はこれから、新しいポケモンを仲間にする。自分で買ったモンスターボールを、自分の手で投げて、ポケモンを捕まえる。
ただそれだけのこと、ポケモントレーナーであるならば簡単に通り過ぎるであろう、たった一つの通過点に過ぎないことだ。
けれどそのたった一度の体験を見届けることができるのだと、彼だけでなく、私だって高揚していた。
嬉しい、楽しみだと、そんな単純な感情ばかりが火花のようにぱちぱちと頭の中で弾け続けていた。
ポケモンセンターの扉をくぐれば、夏の暑さを忘れさせるような涼しいエアコンの風が肌を刺した。
此処が涼しいことを理解しているトレーナーたちが、ベンチを陣取ってサイコソーダ片手に涼んでいる。水着姿のままやって来ている人達もいた。
「……この町はポケモンセンターまで騒がしいな」
セッカシティの静けさと比べているのだろう、驚きと呆れの入り混じった表情で彼はそっと零す。
肩を竦めて私もそっとそれに同意してから、全てのポケモンを預けてスタッフに回復をお願いした。そのまま彼の手を引き、ショップへと向かう。
彼はしばらくの間、ショーケースに入れられたボールをじっと見つめていたのだが、やがて説明を請うようにこちらへと顔を向け、首を傾げた。
「何故こんなに種類があるんだ?」
「捕まえたいポケモンのタイプや強さによって、適したボールがあるみたいですよ。
この青色のボールは水に住むポケモンが好むもので、このピンク色は確か、捕まえたポケモンを回復させてあげられる機能があった筈です」
一度口を開けば止まらなくなり、次から次へとボールの解説をしていると、ふいに彼が小さく笑った。
途端に我に返った私は、恥ずかしさに火照った顔を見られないように片手で顔を隠しつつ、ごめんなさいと笑いながら謝る。
けれど彼の笑いは私の熱弁に対するものではなかったようで、困ったように笑いながら首を振り、思いもよらないことを口にした。
「ポケモンの解放に成功していれば、これらが全てただのガラクタになっていたのだと思うと、どうにもおかしくなった。
私は今、我々が躍起になって失くそうとしていたものを手に取ろうとしているのだと、考えれば笑わずにはいられなくなった」
「!」
「シア、私をどう見る?私を滑稽だと思うか?」
あまりにも穏やかに笑う彼が、私の見えないところで拳を握りしめていることに、勿論、察しの悪い私が気付ける筈がなかったのだけれど。
「……」
彼が今から買おうとしているものは、ポケモンを縛り付けるためのものだ。ポケモンを人間の言いなりにさせるための、小さな、それでいて何よりも頑強な鎖だ。
そうしたものを失くすための組織に属していた彼が、その鎖を手にすることを、彼はおそらく躊躇っている。そして、ほんの少し恐れている。
だから私に問うたのだ。「私が滑稽か」と。「お前の目に今の私はどう映っているのか」と。
そんな彼の迷いを読むことは、彼の隠した拳を盗み見るよりずっと簡単だった。
『ゲーチス様は野望のためにポケモンの解放を謳われたが、2年前の作戦が成功だったならば!実際に救われたポケモンも多かっただろう……。』
プラズマフリゲートの最奥、監視室での彼の言葉が記憶の海から呼び起こされた。
あれだけはもしかしたら、ダークトリニティとして発した言葉ではなく、この人の、この人だけの言葉だったのかもしれない。
「貴方がとても滑稽だったとして、貴方がボールを手に取りたくなかったとして、……それでも、ミズゴロウは貴方の後ろを付いてくる。貴方を慕っているから、貴方が好きだから。
だから貴方はミズゴロウをボールに入れなきゃいけない。トレーナーはポケモンに守られるためじゃなくて、ポケモンを守るためにボールを使わなきゃいけない」
あの時、彼はどんな顔をしていたのだろう。私はあの時とにかく必死で、自分のことばかりで、そんな時に彼の顔など、冷静に見られた筈がなかったのだけれど。
けれどもしかしたら、今の彼と同じ表情をしていたのかもしれないと、そう思ったら止まらなかった。
「似たことを私、ある人に教わりました。貴方と同じ、プラズマ団の人でしたよ、ダークさん」
大いなる脅威に立ち向かいたいのなら、自分のポケモンを守れるだけの強さを持ちなさいと、
ポケモンに守られるばかりがトレーナーではないのだと、トレーナー自身が強いからこそ、ポケモンのことを想うからこそ、ポケモンも力を発揮できるのだと、
そう教えてくれた、とても賢く優しい人のことを、私はちゃんと覚えている。その人が、私の「文字を教える」という愚行を窘めてくれた相手であることも、覚えている。
ああ、一度、あの人に謝りに行かなければいけない。そしてお礼を言わなければいけない。あの立派な人がくれた言葉は、いつだって私の指針だった。
「このボールはポケモンを縛るためのものではなく、守るためのものだと?つまりお前は私に、「ミズゴロウを守るために滑稽で在れ」と言っているんだな?」
「……見栄を張って、体裁を取り繕って、大事なものを取り零すより、ずっといいと思いませんか?」
挑発的な口調で問われ、私も思わず棘のある言葉で言い返した。文字を言葉を忘れたかのような冷たい目が私を真っ直ぐに射た。
けれどこの緊迫した空気は長く続かなかった。彼は堪えていた息を吐き出すように笑い、「冗談だ」と口にして私の頭を軽く叩いた。
「大丈夫だ、迷わない。お前がいるのに迷える筈がなかったのだ。……迷っていなかった筈だが、お前の言葉が欲しくなった。それだけだ」
その言葉が嘘だったのか、本当だったのか、私には確認する術がない。
彼が本当に迷っていなかったのだとしても、私の言葉で背中を押してほしかっただけであったのだとしても、
あるいは自嘲気味に私に問うことで私を試そうとしていたのだとしても、本当はボールを手に取ることがどうしようもなく恐ろしかったのだとしても、
それら全てを私は確かめようがない。だから彼の言葉が真実なのだということにして、頷いた。彼に私の言葉を求められたことを、ただそれだけを噛み締めようとした。
噛み締めれば、途方もない歓喜が全身を襲った。それまでの私の緊張や不安は一瞬にしてなかったことになった。
彼は何の躊躇いもなく、「これを」と言って、何の変哲もないごく一般的なモンスターボールを指差した。
百円玉2枚で買うことのできる絆を、しかし彼はもう笑わなかった。
*
ポケモンセンターで回復してくれたポケモン達を受け取ってから、私達は外に出た。
ポケットから先程購入したボールを取り出すや否や、肩に乗っていたミズゴロウは尻尾を振って彼の手元に飛び込んだ。
ボールはその弾みで宙に跳ね上がり、ミズゴロウはあっという間に小さくなる。ぽふ、と砂浜に落ちて、3回揺れればボタンの点滅は完全に止まった。
あっという間の出来事だった。その呆気なさを味わうように、彼は声を上げて笑い始めた。
「……」
上手く笑うことのできなかった私は、彼の代わりにボールを拾い上げた。
手を出してください、と促して、伸びた彼の手にボールを落とせば、僅かな躊躇いの後に強く握り返された。
「貴方のポケモンです、ダークさん」
「私の?……いや、違うな。私がこのミズゴロウのトレーナーであるだけで、こいつは誰のものでもない」
そんな世迷言を口にした彼は、受け取ったボールをそのまま宙に投げた。
現れたミズゴロウを抱き上げることさえせず、彼は呆れたようにその小さな身体に視線を落とす。
「逃げたければこれを壊せばいい。私はお前がいてもいなくても構わない。お前が突如としていなくなろうが、私を嫌おうが構わない。私に、痛みはないからな」
私が口を開くより先に、ミズゴロウが抗議の意を示そうと大きく飛び跳ねた。
それだけならまだ微笑ましい光景であったのだが、あろうことかミズゴロウはそのまま前足を大きく振りかぶり、彼の顔面を大きく引っ掻いたのだ。
咄嗟に飛び退こうとしたのだが、ミズゴロウの方が早かった。右の頬にあまりにも大きな傷が残る。血を引き取るようにその爪痕はあっという間に赤くなった。
思わず顔をしかめて蹲る彼を案じ、同じ視線まで屈んだ私は、けれどこれは彼の酷い言葉を発端とする因果応報だということに思い至り、
ならば私も報いを示さねばならないと、からかうように「痛みはないんじゃなかったんですか?」と問い掛ける。それを煽るようにミズゴロウが笑う。
彼は諦めたように砂浜へと腰を下ろし、大きく溜め息を吐いてからぐい、と頬を乱暴に拭う。
「……ああ、痛いな!」
そう言って、ケラケラと笑うミズゴロウを、握り潰すような勢いで抱き締めた。
頬の傷から再び鮮やかな血が滲み、蝋のように白い彼の頬を伝って、落ちた。
2013.8.5
2016.8.28(修正)