16:Epilogue

◇◇

鮮やかな世界が戻って来てから2日後、私は長くお世話になったこの部屋を後にすることとなった。
急に決まった退院だったため、トウコ先輩やアクロマさんの助けを借りて、衣類やお見舞いの品を慌てて鞄に詰め込んだ。
途中からNさんもやって来てくれて「差し入れだよ」と人数分のヒウンアイスを差し出してくれた。

何週間も液体しか口にしない日々が続いていたため、私の胃は小さくなってしまっているらしく、以前なら普通に食べられていた筈のアイスも、半分ほどしか喉を通らない。
けれど多くを食べられないだけで、そのひんやりとした甘さも、トッピングされたパチパチと弾けるキャンディの酸味も、私の舌はちゃんと拾い上げている。
鉄の味であった栄養ドリンクも、今ではイチゴ味だと解るようになった。
美味しいものを美味しいと思えることの幸福を私は噛み締め、誰かと目を合わせてはただそれだけのことに喜び、笑った。

ベッドサイドのデスクに置かれていたCDプレイヤーを片付けていると、Nさんが隣の一輪挿しを手に取った。

「美しい植物だね。これに名前はあるのかい?」

クローバーの名前を尋ねられ、「シロツメクサ」と答えるのが正しいのだろうかと考えあぐねていると、
私の衣類を鞄に詰め込んでくれていたトウコ先輩が「ああそっか、Nはクローバーを見たことがないんだっけ」と助け船を出してくれた。
私にとっては馴染みの深すぎる植物だったけれど、外で遊んだ経験のあまりない人がその名前を知らなかったとして、けれどそれは当然のことだったのだろう。

「病院の中庭にクローバーの生えている場所があって、そこで見つけたんです。普通は3枚なんですけど、これは葉っぱが4枚ある、少し珍しいものなんですよ」

「ああ、クローバーとはこれのことなんだね。……でも、元々は4枚あったのかい?今は3枚しかないようだけれど」

その言葉に、私はCDプレイヤーのコンセントを持った手を止め、彼の方へくるりと振り返った。
彼の持つ一輪挿し、そこに小さく咲いていた筈の四つ葉のクローバーは、しかし葉っぱを1枚だけ失っていた。
よく見ると、4枚目の葉は千切られたようにその存在を留めるのみとなっていて、何処に行ってしまったのだろう、と少し寂しい気持ちになった。

「……1枚、なくなっていますね」

そう呟いて困ったように笑う私に、Nさんは「いや、これはこれで素晴らしい形をしているんだよ」と、「3枚の葉」が示す美しさについて饒舌に語ってくれた。

「結び目理論と呼ばれる学問の体系があってね、1本の紐をユークリッド空間と呼ばれる理想の三次元に置いて、その紐の結び目を数学的に表現するんだ。
解くことができないようにすることを条件としているから、結び目は最低でも3つ必要だ。
これを「クローバー結び目」と言って、結び目理論においての自明でない、つまりほどくことのできない最も単純な結び目とされている。
確か、タンパク質の立体構造にも、このクローバー結び目が使われているよ」

「おや、貴方は数学に造詣が深いのですね」

凄まじい早口で説明されたそれらの、おそらく高等な数学の知識がなければ理解できないであろう単語に反応したのは、私ではなくアクロマさんだった。
博識である彼は数学の知識も多分に持っているらしく、早口で更に言葉を続ける彼に、同じくらいの早口で訳の分からない言葉を返していた。
トウコ先輩が「あんたたち、頭が痛くなるような会話なら他所でやりなさい」と苦笑しながら咎めたことでその会話は収束したけれど、
Nさんは困ったように笑って私に向き直り、先程の気迫に溢れる早口を忘れさせるような穏やかな声音で、告げた。

「……というように、数学的には3枚のクローバーというのはとても美しいものであるのだけれど、それはボクの意見であって、キミの意見ではない」

「!」

「キミにとっては4枚のクローバーというのは、きっととても大きな意味を持つのだろうね。
……ボクはそうした、ヒトの思慮を汲み取るのがどうにも下手だから、上手く励ましてあげることができないのだけれど」

ごめんね、と謝る彼に、私は慌てて首を振った。
先程、彼が早口で解いてくれた三つ葉のクローバーの素晴らしさについての説明は、四つ葉が三つ葉になってしまったことに気落ちしていた私を励ますためのものだったのだ。
ありがとうございます、と告げてから、私は、おそらくNさんが知らないであろう「四つ葉のクローバーである意味」を簡単に説明する。

「四つ葉は、幸せを運んでくれるクローバーなんです」

「……ああ!成る程、だから三つ葉になってしまったんだね」

彼は色素の薄い目を見開いて、満足そうに微笑む。
けれど彼が納得できたことに私はどうにも思い至ることができず、「どういうことですか?」と無粋にも尋ねれば、彼は笑いながらとても印象深い言葉をくれた。

「キミの幸福が戻って来たから、四つ葉は役目を終えて四つ葉で在ることをやめたのだと思ったけれど、違ったかな」

思わず、手元の三つ葉に視線を落とした。
そう、なのかもしれない。私に鮮やかな世界が戻って来たから、……だから四つ葉は千切れてしまったのかもしれない。
そうであったなら、素敵なことだと思った。そうでなかったとしても、そう思うことで千切れた三つ葉はかけがえのない意味を持つ気がした。
私は何も言えずにただ、泣きそうに微笑むことしかできなかった。
トウコ先輩がNさんの肩を軽く叩いて「あんたのそういう、とんでもなく人を驚かせる言葉を平気で選べるところ、嫌いじゃないわよ」と笑った。

私の日常が、「幸福」という名前に彩られて戻って来た。
外は冬で、吐く息は白く、北の町には雪が降り積もっていた。私が盲目となっていた間に、季節はすっかり冬の様相を呈していたのだ。

モンスターボールからポケモン達を出してあげた。久し振りに見る彼等の顔に泣きそうになった。
トウコ先輩と久し振りに、とても久し振りにポケモンバトルをした。喉が枯れてしまうのではないかと思うくらいに声を張り上げて、彼等に指示を出した。
ポケモンバトル特有の、不思議な心臓の揺らぎを私は思い出し始めていた。これが、私の振りかざした正義で守った世界なのだと、噛み締めるように挑んだ。

私はまた以前のように、イッシュを巡る日々を送っていた。
ポケモン図鑑を埋めるために、道路や水道を渡り歩いた。知らないポケモンとの出会いに胸を高鳴らせて、少しずつ空欄の減っていく図鑑に大きく頷いては次の道へと駆けた。
ホドモエシティのPWTやタチワキシティのポケウッドに通い詰めて、そこで知り合った人達と、話をした。

出会いの数だけ会話があって、会話の数だけ意見があった。
私はそれらを時に吸収し、時に受け入れ、時に疑問を呈し、……そうして最終的に、私がどうすべきなのかを私自身で決めようと努めていた。

『もし我々の仮説が間違っていたのなら、私は、お前に謝らなければいけない。』
『何もお前に限ったことではなかったのだろう。盲目でない人間など、きっといなかったのだろう。』
『このような子供にワタクシの野望が折られたのかと思うと情けなくなります。』
『今からでも遅くない。悔いるな、胸を張れ。そうすれば二度と、お前の目が見えなくなることはない。』

そんな日々の中で、私はふと、彼等の言葉を思い出す。
私のことを憎み、恨んで然るべきであった筈の彼等が、何故、私にあのような言葉をかけてくれたのか。
一度は私に呪いをかけた彼は、何故、私が再びこの世界を見ることを許したのか。
……それらの答えは未だ、見つからない。けれど私は考え続けている。考え続ければ、見つかる筈だと信じている。
だって、そうしてもいいと他でもない、私に呪いをかけた彼がそう言ったのだから。欲張ってもいいのだと、そう許してくれたのだから。

けれど、それでも心が折れそうになった時は、いつものように「彼」の言葉を思い出す。
思い出して、それでも耐えられなくなった時には、ポケモンの背に乗ってプラズマフリゲートへと飛ぶ。
彼が綴ったノート、その最後のページに挟まれた「幸福」の三つ葉を思い返しながら、その三つ葉に導いてくれた彼のところへ、駆けていく。
記憶の中に生きる魔法の言葉、それを、彼のテノールで紡いでもらうために、会いに行く。

「貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたくしが支えます」

これが、欲張りな私の、生き方だ。

彼女の指は、見えずとも幸福を掴み取りました。
四つ葉はその役目を終えて三つ葉となり、今は一輪挿しを離れ、分厚い本の間に挟まれています。
破れた葉を持つ不完全なクローバーを、しかし彼女は押し葉にして、大事に取っておくつもりなのでしょう。

どうかもう二度と、貴方の指が幸福を必要とすることがありませんように。
もし必要とすることがあったとして、その時は、求めるより先に差し出すことが叶いますように。


2016.2.26
(目覚め)
Thank you for reading their story!

© 2024 雨袱紗