8:Forgetting of eye color

彼女は確かに頑張り過ぎているようには見えましたが、追い詰められていたようにはとても見えなかったのです。疲れ果てていたとは、とても思えなかったのです。
それが彼女の、巧妙に取り繕った仮面なのだと言われれば、そうであったのかもしれません。
医学の専門家である医師にそう言われてしまえば、わたくしに反論することなどできる筈がありません。けれど、やはり違和感は拭えませんでした。
わたくしは、彼女のそうした仮面を見抜けない程に愚鈍だったのでしょうか。わたくしを慕ってくれる彼女を支えたあの時間は、その程度のものだったのでしょうか。

◇◇

四つ葉のクローバーの茎を摘み取った。冬の風が、植物特有の青い匂いを鼻元に運んでくる。
クローバーで花輪を作ったことを思い出し、懐かしいなあと微笑んでいた私に、彼は少し躊躇ったような声音で切り出した。

「わたくしがこんなことを尋ねるべきではないのかもしれませんが、不安ではありませんか?」

不安?と彼の言葉を繰り返して、彼が何を案じてくれているのかに少し遅れて思い至る。
確かに今のこの状況というのは、決して安心できるようなものではないのだろう。
それまで健康そのものだった私は、予防接種や検査以外で身体に針を刺すことなどしてこなかったし、こんな風に入院をしたのも、記憶にある限りでは初めてのことだった。
住み慣れた我が家では、見えなくても大抵の日常動作を行えていたけれど、右も左も解らないこの空間では、誰かの力を借りないと危なっかしくて歩くこともままならない。
彼はそれを案じているのだと、今更ながら思い出し、苦笑した。

「目が見えなくなり、味覚が異常をきたし、水さえ飲むことができなくなる。あまりいいものではないでしょう?」

「そうでもありませんよ。目が見えなくなったから、味が分からなくなったから気付けたこと、沢山あるんです」

そんな風にうそぶいて空気を和ませる。貴方が傷付く必要などないのだと気丈に笑ってみせる。
けれどそんなことをしたところで、聡明で博識なこの人には見抜かれてしまうだろうから、少しだけ時間を置いて、私は自分の思っていることを伝えようと努めてみた。

「不安は、あまりないんです。心因性のものならお医者さんの言うように、こうしてゆっくり休んでいれば治る筈ですし、特に重い病気な訳じゃないと思っていますから。
……ただ、私、要領がよくないのかもしれませんね」

最後のそれを困ったように眉を下げて呟けば、彼は「というと?」とやわらかなテノールで続きを促した。
その声音に私を案じる温度が含まれていることに私は気付くことができる。表情が分からなくても、その声だけで勘付いてしまう。
彼を慕い続けてきたのだから、彼に支えられ続けてきたのだから、当然のことだったのかもしれないけれど。

「確かに私は、旅に出ていろんなことをしました。ジムに挑戦したり、プラズマ団と闘ったり、ポケウッドやPWTにも出させてもらったり。
……でもそれは、やらなきゃいけないことじゃなかったんです。全部、私のしたいことだったんです。辛い思いもしたけれど、これからもやりたいこと、沢山あったんです」

彼は私の言葉を、ただ静かに聞いていてくれた。

心因性のものかもしれないとお医者さんに言われて、勿論、その診断を否定する気持ちは更々なかった。
事実として、私は旅に出てからというもの、あまりにも多くのことをし過ぎていた。答えが出ないことに焦りながら、必死に多くのことに取り組み、多くの人と話を重ねた。
けれどそれらが生んだ多忙と疲労に、「充実感」や「幸福」の色を見つけることはそう難しいことではなかったのだ。
得られたことはあまりにも多く、楽しいことだって数え切れない程に経験してきた。
苦悩や後悔だって少なくなかったけれど、それでもそれらの鈍い色をした感情は、私の充実感や幸福を掻き消してしまう程の威力を持ってはいなかったように思う。

「でも、私の目が見えなくなったのが心因性のものだとしたら、私の体が私に発した警告なのだとしたら、……私はもうこれ以上、頑張ってはいけないことになる。
私の心はもっといろんなことをしたかった筈なのに、でも心が疲れたせいで、目が見えなくなったり味がおかしくなったりしている」

私を慕ってくれるポケモン達が頑張ってくれたおかげで、新しいチャンピオンになれた。PWTに招かれて数え切れない程のバトルを重ね、いろんな人に出会った。
ポケウッドで撮影を行い、その映画が高い評価を受ければ勿論、嬉しかった。少しずつ埋まっていくポケモン図鑑を見る度に、歓喜と高揚で胸が高鳴った。
それらは全て楽しいことであり、同時に私のしたいことである筈だった。

だから多忙による身体的な疲労で倒れてしまうようなことはあったとしても、精神的に追い詰められて参ってしまい、
その結果、目が見えなくなったり味が分からなくなったりすることが起きる筈がなかったのだ。少なくとも、私はそう思っていた。
けれど実際に私の目は黒しか捉えない。私の口に入ったものは全て鉄の味になる。
この現実を、私は盲目となってからの2週間で受け入れられるようになっていたけれど、それらが心因性のものだと納得することは、まだどうにも難しい。不自然さが拭えない。

何より、自身を精神的に追い詰めたという自覚のない私は、どうすればこの状況から脱することができるのか、分からない。
お医者さんは休めばよくなると言ってくれたけれど、私は、そう思うことができない。
アクロマさんやトウコ先輩もお医者さんと同様に「直ぐによくなる」と言ってくれていたけれど、
私は彼等が想定しているよりずっと長く、私はこの盲目と同居しなければいけないかもしれないと、彼等に内緒でそれなりの覚悟を決め始めていたのだ。

自分ではどうすることもできない力が働いているように思えた。
それは、私自身が私にかけた制止のサインであるというよりも寧ろ、もっと別のところから降ってきた罰であるような気がしてならなかったのだ。

けれどそうだとして、私は益々、そのことを口にすることができなかった。
だって第三者からの罰の可能性があるということはすなわち、私を憎み、恨んでいる人の力によるものだということになる。
それこそもっと非現実的なことであるし、何よりそんな「犯人探し」を、目の見えない私の代わりにこの人にさせるなどということが決してあってはならない。

「自分が、二人いるみたいなんです、アクロマさん」

「……」

「もう一人の私が、私を叱っているような気がするんです。もう何もしちゃいけないって、言われているような気分になるんです」

だから私は、その「第三者」の存在があるという仮説を脳のずっと奥深くに押し込めて、非現実的な犯人を、医学によって説明が効く「自分」に置き換えることを選んだ。
心因性、という医師の言葉は、私を納得させるものでは決してなかったけれど、少なくとも私はこの言葉に救われていた。
その不明瞭な単語は、不明瞭ながらも私の大切な人を守るための武器となった。

「さあ、帰りましょうか。連れてきてくださってありがとうございます。久し振りに外を歩けて、とても楽しかったです」

立ち上がり、おそらくこちらの方角だろうと一人で歩き出そうとした私の手が、しかし次の瞬間、思いもよらない力で掴まれた。
慌てて振り返ろうとしたけれど、それより先に彼らしくない鋭い声音が、やや苦しそうに発せられたから、私は一切の動きを忘れて制止し、沈黙する他になかったのだ。

「PWTのチャンピオントーナメントは、貴方が退院するまで開催されないそうです」

……私は彼がくれたその情報に驚くべきだったのか、それとも彼の、あまりにも苦しそうな声音に驚くべきだったのか、そのどちらの驚きを優先すべきか判断しかねて、沈黙した。

「ポケウッドには貴方の復帰を望む声が多く集まっています。貴方の家には今も、貴方を知る人からお見舞いの品が届いています。皆、貴方を待っているのですよ」

「……」

「戻ってきなさい、シアさん」

その「戻ってきなさい」が、PWTやポケウッドの場に戻ることを意味していることは明白だった。けれど私の心臓は大きく跳ねていた。
私が突如として飛び込んでしまったこの非日常に慣れ始めていること、私がこの盲目と長く付き合わなければいけないと覚悟を決めていること、
それら全てを、聡明なこの人は見抜いているのではないかと思ったからだ。私の「戻る」意思が薄弱であることを、彼は既に知っているのではないかと疑ってしまったのだ。

「こうなった私を見て、救われる人間がいたとしても?」

苦し紛れに発したその言葉に、彼がどのような表情をしたのかを、私は見ることができない。彼がいるであろう場所に向けられた目線は、しかし彼の金色の目を捉えない。
きっと私の濁った眼は不自然に宙を泳いでいるだけなのだろう。

「これが、私への罰だったとしても?」

長い沈黙が降りた。
本当は口にする予定ではなかったことまで口走ってしまったことにより生じた狼狽と困惑、それらを隠そうと努め、肩を竦めて笑ってみせた。
彼は小さく溜め息を吐く。頭の上に降ってきた彼の手は、冬の風に温度を奪われてしまったのだろう、手袋越しでも解る程に冷え切っていた。

「……貴方は欲張ることを思い出さなければいけない」

皮肉にも、彼が私を連れ戻そうとして発したのであろうその言葉によって、私は自分がもう戻れないところまで来てしまっているのかもしれないと自覚するに至ってしまった。
ああ、そうだ。自分は欲張りな人間だったのだと、懐かしささえ覚えてしまう。2週間前まではそうであった筈なのに。

「それは、今の私にはとても難しいことですね」

貴方が支えると誓ってくれた欲張りな私は、もう戻ってこないかもしれない。それでも貴方は私の傍にいてくれますか?
そう、声に出して尋ねることはできなかった。そうして彼が私の手を離せば、いよいよ私は笑っていられなくなってしまいそうだったからだ。


2016.2.24
(目の色を忘れるということ)

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