+ 二話目、一部抜粋
「じゃあ、従わない」
「!」
「貴方の言うことは聞きません。だって私、貴方に勝っているんだもの」
そうしたズミの感慨全てを踏みにじるかの如き、あまりにも酷い台詞を言い捨てて、彼女はくるりと踵を返し、再びサーナイトの手を取って、振り返ることなく出口への道へ歩むばかりだった。
ズミは引き留めたかった。まだこの、おぞましい程の強さを披露していった相手から、聞きたいことが沢山あった。男性であるズミのフィジカルなら、彼女が水門の間を出るまでに彼女へと駆け寄り、その針金のように細い腕を掴むことなど簡単にできる。にもかかわらずズミは動けなかった。彼女が放った言葉が水に溶け込んで、ズミの足を強く強く縛っていたのだ。
『貴方に勝っているんだもの』
その通りだ。ズミは負けた。バトル前には心中で侮りさえしていた相手、この少女に、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。ならば引き留める権利はない。ズミの声が彼女に届くことは在り得ない。
「あっ」
その場で固まってしまったズミの方へと、彼女は水門の間を出る直前、一度だけ振り返った。顔をしっかりと上げ、ズミを一瞥し、安心したようにふわりと笑って……出ていったのだ。
その、これまででいっとう綺麗だと思われた笑顔の中には、ズミの激昂や苦言や忠告を受け止めなくてよくなったことへの安堵が、これでもかという程に含まれていたに違いない。
彼女はこの場を去れることこそに安堵した。このズミから安全に逃走できたことこそを喜んだ。ズミの望む言葉を何一つ返さないまま、彼女は緊張と恐怖と強情さと安堵と歓喜と、そうしたありとあらゆる感情を、この水に溶かすだけ溶かして去っていったのだ。
あとにはその水に足を抱き込まれる、敗者たるズミが残されるばかりだった。
「……なんてことだ」
膝を折った。両手を水に浸し、その掌を冷たい床へと押し付けた。滝の如く壁を伝ってごうごうと流れ落ちていく水音、それに掻き消されて己の耳に届かないなどということが起こらないよう、ズミは喉を潰すかのような声量でもう一度、魂を削るように叫んだ。
「なんてことだ!」
なんてことだ。なんてザマだ。こんな屈辱的な敗北があっていいのか? 自らの信条を真っ直ぐに否定されただけでなく、その否定の言葉と共に完膚なきまでに叩きのめされ、その後の言葉まで、彼女の構えた勝利の盾によりものの見事に弾かれてしまう、そんなことが本当にあっていいのか?
だが、幾ら疑おうとも結果は覆らない。全く歯が立たなかったという事実がズミの全てである。ポケモン勝負においても、その前後の会話においても、そして何より、彼女のあの奇妙に綺麗な有様にも。
ズミは床を両こぶしで叩いた。何度も何度も叩き付けた。水の踊る音が洗脳のように鼓膜をつんざき、彼の頭蓋に響いていった。ステンドグラス調の床には、激しい波に掻き乱されすぎて最早人であることさえ判別できなくなったズミの、悔しさに歪んだ表情がぼんやりと映り込んでいた。
どれほどそうしていただろう。彼女がありとあらゆる感情を溶かし込んでいった水、そこへの八つ当たりを飽きる程に続けたズミの手が、ふいにぴたりと止まった。正確には、四天王の間に流れる鐘の音が彼の手を止めたのだ。二回、立て続けに鳴ったその音は、挑戦者が「四天王のうち二人を打ち負かした」ことの報せである。すなわちズミに引き続き、誰かがまたしても敗北を喫した、ということだ。あの、今にも倒れてしまいそうな細く不気味な体躯をした少女に。これだけの感情をその痩身に孕んだ、あの子に。
「……」
誰が負けたのだろう、と考えようとして、やめた。二人目の敗北者が誰であろうとも同じことだと思ったからだ。彼女はじきに四天王全員を打ち負かす。三回目の鐘も四回目の鐘もきっと鳴る。彼女はサーナイトに手を引かれるがまま、チャンピオンの元へさえ辿り着くだろう。そうしてあの光溢れる場所での戦いの末、彼女の名前が刻まれることになるのだ。この数年間膠着状態が続いていた、よく言えば平穏、悪く言えば寂れていたカロスのポケモンリーグへと。新しい、最強の若きチャンピオンとして。
そんな確信を抱いて、ズミは倒れた。力の一切を抜き取り、体をぺしゃりと潰すようにして、ステンドグラス調のキラキラとした床の上へと仰向けに転がったのだ。服が、髪が、靴が、水を吸っていく。目の覚めるような冷たさが心地良く、思わず笑い出してしまう。
水に溶けていった彼女のあらゆる感情は、まったくもって不気味で不可解なものだった。
分からない。分からない。彼女の歪さの根源も、強さの所以も、何を恐れ何を拒み何から逃げようとしているのかも、ズミには全て分からない。水はほら、こんなにも分かりやすいのに。