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「四天王、最初の壁に私を選んでいただき光栄です。全力でお相手しましょう。ですがその前に尋ねておきたいことがあります」
「……」
「ポケモン勝負は芸術足り得るでしょうか?」
もうすっかりお決まりになってしまったこの質問、緊張した面持ちの挑戦者のために用意した簡易のアイスブレイキングであり、ズミが相手を見定めるための情報収集手段でもある。相手が誰であろうとも、初対面の場においては必ずといっていい程に、ズミはこの問いを投げてきた。しかし彼女に向けたのは悪手だったかもしれない、とズミは尋ねた直後にほんの少しだけ、悔いた。はいと答えなければ殺される、とさえ感じさせるズミの射るような目を見つめて、そうは思わない、と答えるだけの度胸がこの少女にあるようには、とてもではないが思えなかったからだ。
故に返答としては決まりきっている。震える声で同意するか、俯いたまま沈黙するか。彼女の本音たる芸術観を聞き出せないのであれば、この問いはまったくもって無意味である。間違えたか、と悔いるも飛び出した言葉は戻らない。時間の無駄だったと思いながら、ズミは少々の反省とともに彼女の反応を、そうした、やや驕った推測と共に待った。まさか彼女がこの問いに、いいえと答えるはずがないだろうと。
それは確かに驕りであったかもしれないが、この頼りなく弱々しい有様の彼女を見れば、おそらく誰だってそのように考えるはずだ。彼は愚かではないし傲慢でもない。彼の推測は、異常ではない。
サーナイトの手を握り深く俯いていたはずの彼女が、その問いを受けてゆっくりと顔を上げ、嘲笑うように顔を歪めながら首を振ったことの方が、余程「異常」であったのだ。
「この痴れ者が!!」
故にズミは叫んでいた。その激昂が己の屈辱を吹き飛ばし、なかったことにしてくれるはずだと信じて。
だって、これはあんまりだ。こんな、こんな屈辱的な否定のされ方があるだろうか?
「胃袋にモノを収めること、ただそれだけが目的ならば何故料理人がいるのだ!? 食べればなくなるものをより美味しくするため苦労する。それが料理人の心意気、トレーナーも同じであろうが!」
解せない。解せない。何故自分が、こんな子供に、そんな風に嗤われなければいけない? そんな風に自らの信条を一笑に付されなければならない?
このような笑い方をされて平静を保っていられるほど、ズミは温厚な人間ではなかった。おそらくはズミでなくとも、苦言の一つでも呈するくらいのことは誰だってしたに違いない。彼女の否定には明確な軽蔑の意があるように見えたからだ。相手に呆れ、相手を馬鹿にしようとしている、そんな類の笑顔であるように、どうしても見えてしまったからだ。
なっていない、とズミは思う。この場に立つトレーナーとして何もかもが相応しくない、と思う。もう四天王としての役目など忘れ去り、ただ一人のトレーナーとして彼女に絶対的な敗北を叩き付けなければ気が済まない、とも思う。怒りはふつふつと煮え続けている。部屋を満たす水の温度が僅かに上がったような気さえする。このまま彼の怒りが収まらなければ、この水門の間はいずれ干上がってしまいそうであった。
「そんな無礼な態度でよくも此処まで来れたものだ。カロスはいつからこんなトレーナーを野放しにする程に廃れてしまったというのか」
「……」
「私の矜持を手酷く笑い飛ばせて満足か? 何とか言ったらどうなんだ」
階段を駆け下りる。パシャ、と水がズミの足元でなる。半ば衝動的に彼はずかずかと歩みを進めていた。止めようがなかった。彼女はその歪んだ笑顔のままに肩を跳ねさせ、怯んだが、後退るようなことはしなかった。
奇妙な度胸である。四天王たる男に向けられたその表情はある種の蛮行であり、愚行でさえある。異常だ。ただただ異常だ。どうかしている。そうした苛立ちのままにズミは進んでいたのだが、ふとした気付きが彼の足をピタリと止めた。
「違います」
息を飲む。心臓が跳ねる。足元の水が凪ぎ、一気に冷たくなる。
ズミは歩み寄ったことを後悔した。今からでも目を逸らし、後退るべきなのではと思った。けれどもそうした下手な取り繕いを彼女は許さなかった。正確には彼女の、こちらを真っ直ぐに睨み付けてくる大きな目がそれを許さなかった。
「……貴方」
「違います」
己の踵を同じ水辺の上に揃え、近距離で凝視してようやく分かったことだが……こちらを嘲笑っているように見えたその顔は、とかく歪んでいた。怯えるように歪んでいた。泣き出しそうに歪んでいた。目も口元も頬の釣り上がりも全てが悉く歪であった。ただ先程まで帽子の下に隠されていた眉だけが、とても素直に下がっており、彼女の緊張と恐怖をこれでもかという程に雄弁に示していた。ズミを貫いたまま微動だにしないその目からは、あと一回瞬きをしてしまえば涙さえ零れ落ちてしまいそうであった。
「貴方を嗤うつもりなんかありません。私はただ……聞かれたから答えただけ」
これは、とズミは愕然とした心地で思う。下手すぎる。表情を作るのがあまりにも下手だ。恐怖の表情と嘲笑のかたちが眉から下、全て瓜二つであるなどどうして予想できよう。感情と表情がここまでひどく乖離している様を見るのは初めてであった。生まれついての不器用でさえ、もう少し上手く己の窮状を顔に出せそうなものだが。
「だって私、そんな綺麗なポケモン勝負なんて見たことがない」
そして、そこまで泣き出しそうな心地を示しておきながら、それでも彼女はこんな風に強情でさえあったのだから、ズミはいよいよ虚を突かれ、当惑し、言葉を失うしかない。
「……」
微動だにできなくなったズミに先んじる形で、彼女が動いた。サーナイトの手を離してからゆっくりと踵を返し、背を向けて歩き出す。背丈の割に随分と小さく薄い背中だと思ったが、この時点でズミに気付けることとしてはそれが限界だった。
彼女は水を蹴るように、ではなく、踏み込むようにして水門の間を歩いた。黒いパンプスを履いた足が慎重に、一歩ずつ、そっと水の中へ差し入れられる様を、ズミは息をすることさえ忘れてじっと見ていた。サーナイトは半歩程の距離を保ってゆっくりと彼女の歩みへと付いていった。
あれ程までに頼りないと思われていた一人と一匹は、しかしズミと十分な距離を取って振り返ったその瞬間、先程までの泣きそうな顔の歪みも、震える喉から零れ出た「違います」というか細い音も、まるでなかったことにするような気丈な表情になって、そうして真っ直ぐにこちらを見た。
本当に綺麗なものだと言うのなら、今此処で私に見せて。
そのようなおそろしい幻聴がズミの背を震わせた。やっと自由の効くようになった体をなんとか動かして更に距離を取り、先鋒の入ったボールを右手に構えて、顔を上げた。
技を繰り出す構えを取るブロスターの向こう。水面に細い脚先を浸し、赤い目でこちらを見据えるサーナイトの、更に向こう。指示を出すためであろう、こちらへそっと伸ばされた指が針金細工のように細いことにぞっとしながら、ズミはそれはそれはおぞましい確信を得る。
自分は今から、この少女に完膚なきまでに叩きのめされてしまうであろうという、いっそ芸術的でさえありそうな、そんな、おぞましい確信を。