「貴方がそんなに恋物語を好んでいるとは知りませんでした」
「いいえ、以前はちっとも。貴方と暮らすようになるまでは、意識して選ぶようなこともありませんでした。ただ私はこういうことに疎いみたいだから、助けを借りたくて」
カーテンの隙間に差す月の光から逃れるように、彼女はその裾をしっかりと合わせた。
「70冊以上の大人びた「お友達」はとても親切に、いろんなことを教えてくれましたよ」
「……いい友人に出会えたようで、何よりです」
「ふふ、そうでしょう?」
枕から少し離れたところで微笑む彼女がどのような目をしているのか、アポロにはついぞ分からない。部屋に揺蕩う光は枕元に佇む夕日色をした読書灯だけで、それは今の二人からは少し離れたところにある。この灯りで彼女を読むには不十分だ、故にその目の中身を捉えられるはずがなかった。
「だから、これから私達がしようとしていること、ちゃんと分かっています。分かっているつもりです」
しかしたとえ、この寝室が昼間のように明るく、彼女の鼻筋や少し尖った顎や小さな耳を余すことなく視界に収められる状況であったとしても、アポロの欲しい情報は手に入らない。すなわち今が暗かろうが、明るかろうが、彼女の顔が見えようが見えまいが、その目にどのような心地を宿しているのか、などということが分かるはずがないのだ。そうした確信が、ずっと前からアポロの中にはあった。
「知識はあります。順序も作法も心得ているつもりです。でも実際にするのは初めて。貴方は?」
「さあどうでしょうね、昔のことなど忘れてしまいましたよ」
「ふふ、分かりました。話してもいいかなと思う時が来たら、聞かせてくださいね」
この少女のようで神のような彼女の心地など分からない。分かるはずがない。分からないことが当たり前なのだ。そうでなければいけないのだ。アポロにとっては、その不可思議はむしろ心の安寧をもたらすものであった。何も分からない。それでこそ彼女だ。それでいいのだとすっかり受け入れてしまっていた。つまりはそうすることができるだけの日々だった。
けれども今になって、その日々の形から大きく逸脱したことをしようとしている今夜になって、アポロはその分からなさに恐れを抱き始めている。それは彼女に神めいたおぞましさを見たからとかいう、そうした、出会った頃を想起させる類の恐れではなかった。もっと現実的で生々しい恐れ、すなわち今から彼女の前に曝け出そうとしている本能的な欲をその目で捉えた彼女に、幻滅されたり呆れられたり拒絶されたりしないだろうかという、何とも臆病で生々しい、どうしようもない恐れだ。
カーテンをしっかりと閉め直したその肩、暗がりでは輪郭だけしか捉えられないが、アポロにはその曲線が強張っているように見えた。これから始まることを月に見られたくない、そうした思いで夜とこの部屋に明確な線を引き直したと思しき彼女の肩を、これからアポロは撫でることになる。自らに流れる血液の温度が僅かに上がったような気がした。その温度の上昇を彼女に見抜かれてしまっていたら、などと、くだらない不安に見舞われ眩暈を覚える。
クリスがベッドに上がってくる。そのままシーツの上で正座の姿勢を取ったことは、ベッドの傍で所在なく立っていただけの彼を少なからず驚かせた。まさか彼女の読んできた恋愛小説のそうしたシーンというのは、正座で向かい合い行為を宣言するような、不束者ですがよろしくお願いしますと頭を下げ合うような始まり方をするものばかりだった、とでも言うのだろうか。けれどもそんなアポロの僅かな混乱は、彼女がそのまま膝立ちになり、彼を見上げつつ右手を頬へと伸べてきたことにより、ぱちんと泡のように弾けて、消えた。
「……クリス」
彼女の手の甲はさらさらとしていて、冷たかった。出会った頃から変わらないはずのその温度がいつもよりずっと冷え切ったものに感じるのは、彼女が未知の行為への恐れに身をおののかせているからではない、アポロの頬に火移りが起こっているからだ。自らの体温が平常よりも高すぎるために、より冷たく感じられているだけのことなのだ。
おそらく心臓を発火点としているその灼熱の「何か」は、彼の思考を徐々に、徐々に溶かしていく。くそ、と思わず悪態を吐きたくなった。初めての夜はめちゃくちゃでよく分からないまま終わってしまった、などということにはしたくない。理性を手放してもいい時がもし訪れるとしても、それはもっとずっと後でいい。彼女が何もかもをこちらに明け渡そうとしているこの瞬間を、より鮮明に覚えておきたい。そのためにまだ、思考を茹だらせてしまう訳にはいかないのだ。
「きっと……いいえ絶対に、私、上手にできないんです。だから少し怖い。私の下手な反応が貴方を不快な心地にさせてしまうかも」
「それは」
私だって同じです、と声に出そうとしたが、その前に彼女のまるい爪がぴと、と鼻先に押し当てられた。若い女性にありがちな、美しく整えられた細長く伸びた爪ではなく、ともすれば深爪ではないかと懸念される程に短く切られた子供っぽい爪だ。
彼女の爪をアポロが切ったことが何度かあった。その光景を彼はまざまざと思い出すことができる。切る深さを誤れば強い痛みを伴うであろうこの行為。そうでなくとも爪は女性の美を司る重要なパーツであるため、下手に切り過ぎてしまえば当然のように小さな恨みを買って然るべきだ。けれども彼女は一切の忠告も注文も寄越すことなく、ただ笑って手を、指を、爪を差し出し、アポロが為す爪切りの手技を確認することさえせず、安心しきった様子で目を閉じた。唇にゆるい弧を描いたまま沈黙した彼女の睫毛はあまりにも雄弁に「貴方の好きにどうぞ」と語っていて、その姿に、アポロは息が詰まる程の暴力的な色気を見たのだ。
そう、爪。爪だけでどうにかなってしまいそうだった。これ以上を無抵抗に差し出されてしまったら、本当に気が狂ってしまいそうだと当時の彼は本気で考えていた。
その「それ以上」が今、目の前で微笑んでいる。彼女は今から、爪以上のものをアポロに開こうとしている。
「嫌だ、不快だ、気持ち悪い、少しでもそう思うことがあったらすぐにやめろと言ってください。逆にもし、してほしいことがあればそちらも遠慮せず口に出してくださいね」
嫌なことはそう指摘すればやめる。良いことはそのように告げれば再度反応として示す。アポロの好みに適合するよう振る舞うことを微塵も厭わぬその言葉を受け、彼の頬に移っていた火の色が赤から薄い青へさっと変わった。
リビングでコーヒーを共に飲んでいる時と同じ笑顔でそう促す彼女に、その言葉への気負いや嘘がないことは明白であった。明白であったからこそアポロは堪えた。彼女ならば本当に、そうできてしまうだろう。この神めいた不気味性さえ孕む相手にとってアポロの望むように振る舞うことなど造作もないのだ。けれどもアポロはそのようなことを望みたくなかった。仮にそうしてもらったとして、アポロ好みの反応を学習しきったクリスに触れられたとして、そんなものが一体何の幸福を生むというのだろう? 気持ちよくなりたいだけなら、興奮していたいだけなら、一人でバスルームへと籠城し、乱雑に擦っていればいい。その程度の価値しかない利己的なマスターベーションに彼女を付き合わせるつもりは更々なかった。
「それではまるで、私の欲で貴方を作り変えているようです。貴方が何十冊と読んできた「マニュアル」には、そのような振る舞いこそが正解なのだと本当に書いていたのですか?」
「いいえ、正解である、という明記は何処にも。だからどれが正解なのかは私にも分かりませんでした。もしかしたら……今夜の正解は私達が決めるもので、余所の物語が教えてくれるものではなかったのかもしれません」
だから、と続けて彼女は左手も使いアポロの頬を緩く挟む。湯水のように言葉を溢れさせることなど彼女なら簡単にできるはずで、その無限の語彙を用いてアポロを納得せしめるだけの文章を組み立てることだって、即座にできてしまって然るべきだ。けれども彼女はそうせず、沈黙を作っている。夜に必要な「間」を分かっているのだ。その空気の作り方はおそらく彼女のマニュアルが教えたことなのだろう。けれどもその沈黙は決して事務的なものではなく、細められた空の目はその沈黙を楽しんでいるように思われた。もしかしたらそれは、今日という決定的な夜に浮付いていたアポロの贔屓目に過ぎなかったのかもしれないけれど。
「私は、貴方の好んでくれること全てを今夜の正解だとしていたい。いけませんか?」
アポロはベッドサイドの読書灯を一瞥した。そのささやかな灯りは彼女の鼻筋に濃い影を落としていた。アポロはカーテンを一瞥した。向こう側の月は彼女に降りる小さな影を知らない。アポロは心の内で月を嗤った。いい気味だと思った。そうしたささやかな専有だけで満たされてしまっていた。これまでは本当にそうだったのだ。
ハイティーンの青年に象徴されるような、歯止めが効かなくなるような性衝動は持ち合わせていないつもりだった。勿論、人間であり男性である以上そうした欲求とは切っても切れない有様ではあったものの、愛の階段を一段飛ばしで急くように駆け上がりたいとは思わなかった。爪の譲渡、鼻筋に落ちた影の専有、そうしたものを彼は愛していた。そんなちっぽけなものでは足りなくなってしまった、などと言うつもりは毛頭なかった。
それでもこの夜はやって来た。そうすることが自然であるとなんとなく感じたからであった。その「なんとなく」を言語化できないことにもどかしさを覚えたが、彼はアポロで、クリスではない。彼は人間で、神ではない。だから「なんとなく」が関の山であった。それでいいと思えるのが人間であった。
「分かりました。ただ私も、私が貴方のどんな振る舞いを好ましいと思うのか分かっていないんですよ。何せ、貴方を抱くのは初めてなもので」
「そうですね。それは、ふふ、本当にその通り」
「だから一緒に探してください。今夜の正解は二人で決めるものです。そうでなければいけない」
彼女はまた「間」を作った。あと二秒程待てば、その唇がふわりと三日月形に緩むところをこの目で見ることができただろう。けれども彼はそうしなかった。クリスなら間違いなくこの懇願に同意する。その驕った確信のままにアポロはようやく動いたのだ。
アポロさんにとって、神を開くというのはどのような意味を持つのだろう、と、考えながら書いています。