※だいぶ気持ち悪い話だし無駄に長いしやっぱりただただ気持ち悪い話なのでこれもAKAN案件入り
物心ついたときからずっと、ゲームや小説やアニメといった二次元にて繰り広げられる鮮やかなエンターテイメントと一緒に過ごしてきました。
それこそポケットモンスターとか、名探偵夢水清志郎事件ノートシリーズとか、数年単位で、あるいは人生の大半を共に過ごしてきたものに対する愛着は計り知れず、
こうした全年齢向けのゲームや小説を成人した今でも尚、がっつり楽しみどっぷりしている身である私は、
「これらの世界の中に私がいる」というような妙な錯覚を抱く、という、幼子が絵本に対してする楽しみ方を未だに手放せずにいます。
当然のことながらこれらは、このままならない世界に生きる人間様が生み出した創作物でありエンターテイメントでありフィクションであるため、
エーフィやブラッキーはこの世界にいないし、夢水清志郎みたいな名探偵も存在するはずがないのですが、そんなことはよくよく分かっているのですが、
今になってようやく、……いや違う、子供の頃から可愛いポケモンも素敵な名探偵もこの世界にはいないと知っていたにもかかわらず、
何故か私の心は今でも「その世界に私が存在する」ことを渇望していて、それだけならまだしも「この世界がその世界で在れ」と願っていたりさえするのです。
私が愛したエンターテイメントの人間達は、とても美しく、凛々しく、優しく、時に卑怯で怠惰で醜悪であることもあったけれどそれでもどこか、かなしい。
私は彼等を愛していました。私に夢を見せてくれた彼等のことをきっと今でも愛しています。人の形をした「概念」たちを愛しています。
けれども、なまじ彼等が「人」であるために、彼等が私と同じ人間の姿をしているために、
私は時折、……いや違う、頻繁に、かなり高い頻度で、このままならない世界に生きる私と、あの世界に生きる美しくかなしい彼等を混同してしまっています。
私が愛した世界の中で繰り広げる、食事、睡眠、性交。私が愛した世界の人達が織り成す、慈愛、憧憬、嫉妬、憎悪。
腐った料理や干からびた花でさえ、愛した世界に生きる人達はほとほと芸術的な感性でそれを愛でるのです。
汚く臭く生々しくグロテスクな生命、卑怯で怠惰で強欲で傲慢でエゴイスティックな意思。
これらを身に纏いながらも気高く美しく優しく生きてくれる、そんな彼等のことが大好きでした。
けれども彼等は人ではありません。人の形をしていますが人ではありません。彼等は概念であり、その美しさは幻想です。
そして、その幻想かつ虚構の彼等が稀に、本当に稀に、私達の姿と重なる。
肉の器も魂の重さも持たないはずの彼等が、本当に私達と同じ存在であるかのように思われる瞬間がある。
その奇跡に心を震わせるのがエンターテイメントの醍醐味であったはずです。そのようにしてあらゆるゲームやアニメや小説を楽しむべきであったはずです。
にもかかわらず、私は毎日のように誤解を重ねます。人の形をした「概念」と、私という「生命体」が同じ存在であるのだと思い上がります。
誤解を重ねすぎた私の「人間としての基準」は彼等の中……すなわち「概念」の中にこそあり、
私も彼等のように、概念のようにあるべきだと、あってほしいと(そのようなこと、叶うはずがないのに!)願ってしまっています。
私の愛した概念、人の形をした美しい概念たち、私にとっては彼等こそが「人間」であり、そこから逸脱した私は最早人間ではないのです。
怪物なのです。
私はゲームを楽しみ過ぎました。私は本を読み過ぎました。私はあれらの美しい世界を愛し過ぎました。
だから私は怪物です。
それは私の容姿が見るに堪えないほどに醜悪だとか救いようのないサイコパスだとかそういう話では勿論ありません。
私の認識、私の誤解に乗っ取るならば、私の愛した世界に即して考えるならば、「そこに私がいない」という、その時点で私は既に人間としての資格を失っているのです。
そういうことなのです。
……すぅごい長々と書いてしまいましたね、申し訳ありません。
数年前からずっと「概念大好き人間」だったのですが、今更ながら「此処まで頑なに概念へ固執するっておかしくないか?」などと疑問に思い、
その執着の理由および背景について色々と考えていたら、一つの可能性として上のようなことを思いついたのでまとめてみました。
フィクションの彼等こそが人間でない存在であり、私は紛うことなき人間であるはずなのですが、歪んだ認知によりそれが逆転しているという有様です。
ただ、この逆転説では食事とか性交への恐怖感というものが説明できないので再考の余地があるとは思うのですが、今回の思考はそれなりに……楽しかったかな。