蝋と太陽

エイセツシティから更に西へ歩いた。肌を刺すような寒気はとうに消え失せて、温かな日差しが分厚い雪をすっかり溶かしてしまっていた。
風はもう冷たくない。心地良い涼しさの中に最早防寒具は不要であったが、それでも男はマフラーを外さなかった。
しかし隣を歩く女性は早々に「ボンボン」の付いた手袋を外し、にこりと笑ってこちらに手を伸べるものだから、彼は拒む理由を失いその華奢な手を取る以外になかったのだ。

春はこの女性の好む季節であることを男は知っていた。
「こんなに天気のいい春の日に旅立つなんてとても素敵」と、休暇が始まった3月のあの日に、誰に向けるでもなく空へとそんな言葉を投げて笑った彼女を彼は覚えていた。
故に「四季」という概念が希薄なこの土地においても、春を思わせる気候の中に身を置くという事実だけで、彼女が上機嫌になることなど大方察しがついていたのだ。
だから隣で男の手を握る彼女が、まるで聖母のように微笑んでいたとして、少女のように鼻歌を紡ぎ出したとして、彼は特に驚くことも怪訝な顔をすることもしなかった。
それは二人にとって当然のことだったのだ。どうして足を止める必要があったというのだろう?

「待て」

「……え、どうしたの?」

けれど男の足は、彼女ではない別のものを警戒するためにぴたりと止まった。彼が足を止めれば当然のように、その男の手を掴んでいる女性の足も止まる。
沈黙する二人の上には影が差していた。21番道路に生える大きな木が作る木陰であったが、その中に別の「影」が潜んでいる気配を男はすぐに拾い上げた。
咄嗟に女性の腕を引いて自らの背に庇い、モンスターボールを構えて木陰を睨みつける彼であったが、
やがてそこから下りてきた「影」の正体に気付くや否や、糸が切れたかのように脱力し、その睨みを警戒ではなく呆れを込めたものへと変化させて溜め息を吐いた。

「……何をしている。仕事はどうした」

「休暇を頂いたのはお前だけではないことを忘れる程にカロスの旅は楽しかったようだな、何よりだ!」

バサリと降り立った「影」の、白く長い髪は高い位置で一つに束ねられていた。
マリンボーダーの上に紺色のシャツを羽織った彼は、おそらく西の方角からやって来たのだろう。この薄着であの雪の町を歩くなど自殺行為である。
筋肉質かつ細い手首には、繊細な装飾の施された銀の腕時計がゆるく結ばれている。木漏れ日がその金属を射て一瞬だけ眩しく煌めく。
マリンボーダーのVネックにはサングラスが引っ掛けられており、彼は得意気にそれをかけてにやりと笑う。

以上のことから、どう考えてもカロスの旅を楽しんでいるのは背後に女性を庇ったこの男ではなく、サングラスをかけたこちらの男であるように思われたのだが、
彼は「いやいや、一人の旅は気ままで楽しいがやはり二人で同じ地を踏む幸福には叶わないさ」などと告げて羨むように肩を竦めてみせる。
「久し振りね、ダーク」と男の後ろに立つ女性がひょいと顔を出して告げれば、彼はサングラスをくいと指で上げながら皮肉めいた、おおよそ彼の仕える主に似た笑みを湛えた。

「おいおいバーベナ、せめてあの子のように「アギルダーのダーク」と呼んでくれないか。俺はもう個性を取られた空虚な存在ではないんだ」

「あら、そんなこと知っています。でも呼び名はあまり重要なことではないのよ。
同じ名前をしていて、同じ背格好で、同じ髪の色をしていて、……それでも、もう誰も貴方達を見間違えたりしないわ。だってこんなにも違うんですもの」

「……へえ、そうかい」

男は喉を鳴らすようにくつくつと、至極嬉しそうに笑ってみせる。
女性もそれに釣られたように柔らかく笑みを作るので、残された男も呆れたように眉を下げて、ぎこちなく唇に弧を描く他になかったのだ。

彼女が「愛の女神」と呼ばれた所以はおそらくこうしたところにあるのだろう。
彼女は息をするように人の心の揺らぎに触れる。彼女は相手の、本当に望んでいるものがきっと見えている。常軌を逸した力を持っているのは何もあの王様だけではなかったのだ。
白いマフラーをした男も、サングラスと腕時計を見せびらかすように煌めかせて笑うこの男にだって、彼等にしか持ち得ない力があったのであって、
つまるところ、此処には彼等が彼等の形で当然のように在るだけだったのだ。
だがその「当然」と思われていた形の尊さを知っているからこそ彼等は笑った。木漏れ日は眩しかった。

「それで要件は何だ。まさか我々を冷やかすために木の上で待機していたのではあるまい」

「それも大事な要件に違いないのだが、本題は確かに別にある。……これだ」

サングラスの男は鞄からモノクロのコピーを取り出して、女性の方に手渡した。
横から男もそれを覗き込めば、つい先日まで観光していたエイセツシティの南に、赤いペンで印が付けられている。

「この森を抜けた先にあるものを見てきてほしい、とのことだ」サングラスの男は意味深な笑みを湛えてそう告げる。彼の表情は実に多彩で、忙しない。
誰が頼んだことであるかなど、彼等の間では訊かずとも解っていることであったし、彼が何を指して微笑んでいるのかも解っていた。
彼等の主が「見てきてほしい」などと依頼の形で彼等に口を開くなどいうことはとても珍しい、……下手をすればこれまで一度もないことであったからだ。
これまでの関係が変わりつつあることがおかしいのだ。あのお方が「命令」ではない言葉を紡がれているという事実がどうにも面映ゆいのだ。
そうした全てを包括した笑いであることが解っていたから、男も乾いた笑みでそれに同意しつつ、最も重要なところだけを尋ねるために口を開いた。

「これは仕事か?」

「いや、そうではない。だからこの頼みを聞き入れずとも構わない。だが聞き入れるととてもいいことがあるぞ」

その言葉に反応したのは男ではなく地図を受け取った女性だった。
彼のコロコロとサイコロを振るように変化する笑顔に釣られたかのような、好奇心を前面に押し出した明るい笑顔で「どんなこと?」と尋ねる。
けれどサングラスの男はその女性ではなく彼の方を真っ直ぐに見つめ、「とても面白いことだ」と前置きしてから、告げる。

「ゲーチス様が我々にお礼の言葉を下さる」

「引き受けよう」

さらりと了承の意を示した男に、いよいよ女性は堪え切れなくなって笑い始めた。「是非私も聞きたいわ」などとうそぶきながら、華奢な肩の震えはしばらく収まらなかった。
彼女はこうした風に笑えるようにもなったのだ。あどけない、少女のような笑い方だった。
彼女はただ彼女のためだけに笑っており、その微笑みは誰に向けられたものでも、誰のためのものでもなかった。そんな当然のことが男にはひどく眩しかった。

そうした彼女の眩しい笑いが止んだ頃、サングラスをVネックシャツに引っ掛けた男は「ああ、そういえば、」と付け足すように、あくまでも余談であるという風に口を開いた。

「ヘレナにも休暇が下りたそうだ。近いうちにカロスを訪れるだろう」

「あら、そうなの?もう少し早ければ一緒に旅ができたのに」

残念そうにそう零す女性に向けて、「ヘレナはお前さん達の邪魔をするような無粋な奴じゃないさ、俺とは違ってな」と苦笑しながら男はからかうように告げる。
困ったように女性は笑ったが、マフラーの男には一つの疑念が残った。……何故、この男はヘレナと共にイッシュを出なかったのだろうという、ささやかな、けれど確かな疑念だ。

彼女に休暇が下りたことを知っているのであるならば、彼もまた同時期に休暇を貰っている筈だ。
更に二人の行き先は共にカロスであった。余程、仲の悪い相手か疎遠な相手でもない限り、せめてカロスまでは共に行くものなのではと思ったのだ。
陽気でお喋りで騒がしいことを好むこの男なら間違いなくそうした筈だ。けれど彼は一人で此処に立っている。そのことへの強烈な違和感を彼は押し遣ることができなかった。

「お前が共に出てくればよかったのではないか?割と親しくしているようであったが」

「馬鹿を言え、俺だってそこまで無粋な人間じゃない。あいつはずっと、……一人旅がしたいと言っていたんだ」

困ったようにサングラスの男は微笑んだ。僅かに傾げられた首に彼はぴくりと反応する。
それはこの男が隠し事をする時の癖であった。長く同じ主に仕えてきた者同士、それくらいのことは当然のように読めてしまうのだ。
しかしその違和感を拾い上げることはできても、彼が「何」を隠しているのかまでは解らない。常軌を逸した身体能力を有する彼等は、しかし人の心までは読めない。

けれどこの男に読めずとも、隣の女性はその心を読んだらしい。大きく頷いて「そうね、あの子はいつだってそう言っていたわ」と彼の言葉を肯定した。
そうだろう、とサングラスの男は満足そうに微笑み、ひらひらと手を振ってから21番道路を西へと歩き出した。
二人がこれから歩もうとしていた道の真ん中を、彼は悠々と歩いていく。だらりと下げられた左腕に彼の自由の証が煌めく。
隣に立つ女性はそれを眩しそうに見送った後で、そっと小さな声で告げる。

「私は与えられた自由を一人で泳ぐことがほんの少し怖いの。だから貴方が隣にいてくれてとても嬉しい」

「……」

「でも、そうじゃない人だっているのよ。ようやく手にした自由に誰かの影が付いて回ること、それに耐えられない人だっているの。
彼はきっとそういう人なのね。ヘレナは、……それだけじゃないかもしれないけれど」

そう告げた女性の手を再び握る。まるで初めからそうであったかのように指を絡める。クスクスと笑い始めた彼女は、その笑い声の中にささやかな「ありがとう」を混ぜる。
それはこちらの台詞だと、与えられた自由を泳ぐことが恐ろしかったのはお前だけではないのだと、そんなこと、この男が告げられる筈がないから代わりに握った手の力を強める。

きっと男の幼稚な不安と恐怖など、この女性には見抜かれているのだろう。
彼女はそういう人であった。それだってこの毅然とした女性の個性なのだ。彼女を他の誰でもない「バーベナ」であるとする、かけがえのない要素なのだ。

「さあ、私達はエイセツシティに戻りましょうか。ゲーチス様のお礼の言葉を聞くために」

彼女らしくない冗談に思わず男が吹き出す。彼の横顔は先程見送った腕時計のように眩しい。


2016.9.4
(新番外編への布石)(アギルダーのダークさんが嵌めている腕時計の詳細は、SS企画5-2にて)
遅くなってしまい申し訳ありません。すえさん、ハッピーバースデー!

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