「足を取られる。気を付けろ」
そう言ってダークが振り向いたその瞬間、小さな悲鳴が彼の背後で聞こえた。
すてん、とありがちな音を立てて雪の上に顔をぶつけるようにして転んだ彼女に、思わず笑ってしまいそうになりながら駆け寄る。
言った傍から、とは正にこのことか。その両肩を掴んでそっと雪から引き上げれば、バーベナはぎこちない瞬きの後で、首を小さく動かし雪を振り払った。
「ふふ、恥ずかしいわ」と伏せられたその顔が赤くなっていたのは、その言葉通り、羞恥によるものだったのだろうか。それとも、雪の冷たさがそうさせていたのだろうか。
「ここまでの積雪だとは思わなかったわ。エイセツシティには一年中、こんな風に雪が降っているのね」
「……大丈夫か」
「少し顔が冷たいけれど、平気よ」
そう答えたものの、歩き出したその足取りはやはり危なっかしい。またしても派手に転ばれるよりはこちらの方がいいだろうと、ダークはその女性に手を伸べた。
しかし彼女は自身の方へと差し出されたその手を、少しの躊躇いの後でそっと拒んだ。
「だって、貴方も一緒に転んでしまうわ」
「……そんなに柔ではない。転ぶ前に引き上げることくらいできる」
引っ込めた彼女の右手を無理矢理に握れば、クスクスと笑いながら小さな力で握り返す。彼女が何も言わないから、男も何も言わなかった。
イッシュでも積雪はあった。冬のネジ山やセッカシティは雪により白く染め上げられていたし、他の土地でもアスファルトに落ちて溶ける程度の雪なら見ることができた。
しかし、これ程の高い積雪は、イッシュでは経験することのないものだった。
人並み外れた身体能力を持つダークにとって、それは自らの足を取るものには到底なり得なかったが、隣を歩くこの女性にとってはそうではないらしい。
大の大人である彼女が、一人では満足に歩くことすらもできない。その姿は男の心臓の少し上辺りを心地良くくすぐった。
おかしな現象だと男は思いながら、決して手を離さなかった。
しばらく歩けば、ポケモンセンター程度の規模のブティックが見え、女性はふと立ち止まり、彼の手をくいと引っ張ってみせる。
必然的に立ち止まらざるを得なくなった男が「どうした」と尋ねれば、彼女は男の手を離し、彼にとって聞きなれない言葉を紡いでみせた。
「マフラー」
「マフラー……?」
「とても温かいものよ。貴方にきっと似合うわ、私に買わせてくださらない?」
温かいもの、ということからして、おそらくそのマフラーとやらは防寒具の一種なのだろう。
マフラーについての前知識を得ないままにダークは彼女の申し出を了承し、その建物のドアを大きく引いた。
暖房の温かい風が二人の冷え切った肌に染み入り、バーベナは思わず歓喜の息を吐いた。
ふと男の方に視線を移せば、肩に降り積もった雪が、部屋の気温でじわじわと溶けていく様が確認できて、ただそれだけのことが楽しくて思わず笑った。
どうした、と言いたげに振り向いた彼に「なんでもないわ」と返し、しばらく店の中を歩けば、目当てのものが並べられている一角を見つけ、そのうちの一つをさっと取り上げた。
男にとってはやたらと長い布、としか見えなかったそれに首を傾げれば、彼女はその反応を予想していたように柔らかく笑ってみせる。
「……これはどんな風に使うんだ」
「首に巻くのよ、こうやって」
彼女は勢いよくそれを広げ、ふわりと男の首の後ろに回してみせた。
そこからくるくると緩く巻けば、口元が僅かに隠れる程度のボリュームになる。温かいでしょう、と確認すれば、二度の瞬きの後で頷いた。
「長い髪を切ってしまったから、首元へ直に風が吹き付けていたでしょう?それを防ぐ何かがあればいいと思っていたの。デザインのご希望はある?」
「……いや、任せよう」
「ふふ、それじゃあ任されます」
おどけたようにそう言いながら、バーベナは次々とマフラーを手に取り、肌触りやデザインを確認していく。
その度に広げたマフラーを丁寧に畳もうとするので、男はそれを取り上げ、代わりに元の形に戻しておいた。
その度に紡がれるありがとう、という言葉を当然のように聞き流し、聞き流されることにも慣れているかのように意に介さず、マフラーを広げては畳んでいく。
そうしてしばらく経った頃、小さな歓声と共に、彼女は笑顔でそれを掲げた。先にフリルがついた典型的な形のマフラーだった。
白一色のそれを男の首にそっと掛け、ぱっと花を咲かせるように微笑む。
「ほら、似合う」
控え目なボリュームのそのマフラーは驚く程に軽く、滑らかな肌触りが心地良い一品だった。
旅先で汚れてしまった時に目立つのが難点だが、それを言ってしまえば衣服など黒ばかりのものになってしまうだろう。
異論はない、という意味の頷きを返せば、彼女はそのマフラーを右手に持ち「もう少しだけ見てもいいかしら?」と尋ねた。
「お前のマフラーも買うのか?」
「いいえ、私は手袋を買います。この寒さだと指先がかじかんで、上手く動かせないから」
そう言って彼女が掲げた左手の先は、冷たさ故のものなのか、少し赤くなっていた。思わずその指を包むように上から握れば、驚いたように目を見開かれてしまった。
上手く動かせない程に冷たいという言葉からして、その指先は氷のように冷え切っているものと思ったが、その予想に反して彼女の指はダークのそれより少し冷たい程度だった。
バーベナが寒がりなのか、それともダークの体温が冷え過ぎているのか。
そんなことを考えながら手を離せば、バーベナはこてんと小さく首を傾げた。
「貴方の手があれば手袋なんて要らないのかもしれないけれど、いつまでも貴方の手を奪っておく訳にもいかないものね」
はて、そんなつもりで握ったのではなかったのだが。
そう思ったダークだが、それではどうして彼女の指先を握ってしまったのだろうか。他でもない、冷たさにかじかんだその手を温めなければと思ったからではなかったのか。
しかしいずれにせよ、自分の冷たい体温では温めることも満足にできそうにない。それならば予め冷えてしまうことのないように手袋をつけておくべきだろう。
ダークはそう思いながら、幾つかの手袋を吟味する彼女を傍で見ていた。
これにします、と言って彼女が最終的に手に取ったのは、やはりシンプルなベージュの手袋だった。手首に白い毛玉のようなものが付いている。
思わずそのビー玉程度の小さな玉をつつけば、彼女もそんなダークの仕草に釣られたようにそれを軽くつついて笑った。
その毛糸玉のようなものがついていない手袋もあるのだが、敢えてそれを選んだところからして、彼女はその小さな毛玉をいたく気に入ったらしい。
「その毛玉は何というんだ」
「え?……うーん、何ていうのかしら。私もよく知らないわ」
困ったように答えたバーベナだが、男は「そうか」と相槌を打つだけで特にそれ以上、気に留めることはしなかった。
名前のないものなんて、この世に幾らでもあるだろうと思っていたからだ。
しかしバーベナはその未知なる毛玉についての興味を手放すことができなかったらしい。
何ていうのかしら。店員さんなら知っているかしら。でもこんなことが気になるなんて少し変じゃないかしら。
そんなことを楽しそうに紡ぎながら、けれど結局は尋ねないことにしたらしく、そのまま手袋とマフラーを持って会計を済ませた。
すると、そんな彼女の呟きを聞いていたのか、女性の店員がレジから身を乗り出して、そっと教えてくれた。
「その小さな白い玉は、ボンボンというんですよ」
「ボンボン」
「ボンボン」
その独特な単語を思わず反芻したバーベナだが、そのすぐ後に男の口もその音を奏でたため、どうしようもない程におかしくなって笑ってしまった。
ああ、この小さな白い毛玉はボンボンというのね。と、新しい知識に感動を覚えることすら忘れて、小さな音の共鳴の楽しさにしばらく溺れていた。
店員にお礼を告げてからドアを開ければ、カランというベルの音と共に冷たい風が吹き付けてきた。
慌てたようにバーベナは手袋を嵌め、その手でマフラーをふわりと男に巻き付ける。
首元に布がある方が落ち着いてしまうのは、男が今まで黒いマスクで顔の大半を隠し続けてきたせいであった。
けれど今、マフラーの布を少し上にあげて口元を隠そうとするのは、決して顔を見せまいとしているからではない。単に、寒いからだ。
「さあ、行きましょう!」
そう言って歩き出したバーベナは、しかし数歩を歩いたところでやはり雪に足を取られて転んだ。
今度はそのベージュ色の手を掴んで引き上げようとしたのだが、掴み方が悪かったのか、手袋だけがすぽんと抜けてしまった。
またしても小さな悲鳴と共に、バーベナは雪の上へと顔をぶつけ、ダークは行き場を失くした力を持て余して後ろへと倒れ込んだ。
両手を雪について起き上がった女性と、茫然としたまま雪の上に腰を下ろすダーク。どちらからともなく笑い出したその声は、しかし雪のおかげで遠くへは届かない。
2015.9.1
ハッピーバースデー、すえさん!