夢を漕ぐ船

※曲と短編企画、参考BGM「海の時間」

「ほら、いらっしゃい」

子供をその腕に迎え入れる母のように、バーベナはそんな言葉を紡いだ。優しい、子守唄のような声音だ。
灯りが落とされたこの空間で、闇に慣れた男の目は彼女の微笑みをも容易く拾い上げる。
そう、彼女は微笑んでいるのだ。その両手を広げて、真っ直ぐに男を見据えて、あろうことか、ベッドの上で。

「……どういうつもりだ」

「あら、一緒に眠ってはくださらないの?」

彼女はとても意外そうにその目を見開き、小さく首を傾げてクスクスと笑った。
ポケモンセンターの2階に設けられた、旅人専用の部屋。当然のことながら、そこに用意されているのはシングルサイズのベッドだ。
そこへ二人して眠ろうと言っている彼女の意図が掴めず、ダークは思わず眉間に軽くしわを寄せてしまう。

「隣にもう一つベッドがあるのに、一緒に寝る必要はないだろう」

「二人で旅をしているのに、別々の場所で眠らなければいけない理由もないわ」

ダークは大きく溜め息を吐いた。彼女はその美しい笑みと穏やかな声音の割に、ひどく強情で、芯の通った女性なのだ。
無論、自らの主張を曲げることは滅多にない。それがたとえ、こうした些細なことであったとしても。
彼はバーベナをよく理解していた。だからこそ、その言葉に屈し続ける訳にはいかなかったのだ。

けれどもダークは元来、話術に長けてはいない。どちらかというと寡黙で、言葉を選ぶのが苦手な人間だった。それが自らにとって特別な存在であれば、尚更。
同じように特別な存在である筈の自身の主には、かつて饒舌に質問を突き付けたことがあった。ダークは自らの主を言い負かし、彼から必要な言葉を引き出すことに成功していた。
それと同じように、この女性のことも言い負かせればよかったのだが、残念ながらその試みも無駄な足掻きにしかならないのではないかと思い始めていた。
この女性には、敵わない。だからこそ彼は、自らの告白をもってして懇願することを選んだ。

「眠れないんだ」

ようやく紡いだその言葉に、バーベナの顔から笑顔がそっと消える。

「人の気配があるところでは眠れない。誰かと枕を並べて眠るなんて、できない」

それは真実だった。
緑の髪の主に仕えてきた頃、ダークは僅かな人の気配でも目を覚ませるようにと努めてきた。
それ故に、彼の眠りは例外なく、とても浅い。直ぐに目を覚ませるようにするために、深く眠らないようにしていたのだ。
常に倦怠感が付き纏ったけれど、その感覚に反して身体は驚く程俊敏に動いた。
寝具の上で眠ったことの方が少ない彼にとって、スプリングのついたベッドの上に横になるということにすら抵抗を感じていたのだ。
それなのに、そのすぐ隣に人の気配を置いて眠ることなど、できる筈がない。

そしてそれ以前に、ダークは眠くなかったのだ。
神経を張り巡らせずに過ごす時間は彼にとってとても新鮮で、長時間電車に揺られ、彼女と一緒にこのレンリタウンを歩き回ったというのに全く疲れてはいなかった。
けれどバーベナにとって、この長旅はかなり疲れるものだったらしく、その目には疲労の色が少しだけ滲んでいた。
だからダークは彼女が眠っている間、適当に夜の町を歩き回って時間を潰そうと考えていたのだ。

そんな彼の主張を、バーベナは長い沈黙の中で咀嚼し、何かを閃いたかのようにぱん、と手を合わせて笑った。

「それじゃあ、眠らなければいいのよ。私も一緒に起きていることにするわ」

ね、名案でしょう?得意気に肩を竦める彼女にダークは益々呆れた。
長旅で疲れ果てている筈の彼女が、自らの睡眠時間を削ってまで男と枕を並べようとしている。
その意味は最後まで解らないままだった。けれどその解らないものを押し留めることもダークにはまた、できなかったのだ。
彼女の拘りに屈するように、男は大きく溜め息を吐いた。それが降参の合図だと知っている彼女は、クスクスと笑いながらもう一度その両腕を広げる。

「ダーク、ほら」

その身体をダークはそっと抱き締めた。少し温かい彼女の背中にそっと手を回す。バーベナは小さく微笑みの音を紡いだ後で、彼の衣服をぎゅっと握りしめた。
ダークは彼女の身体を支えながら、ゆっくりとベッドに倒した。
灯りの消えた暗い部屋の中で、彼女の瞳にダークは映らない。けれど確かに彼はいた。彼女の直ぐ傍にいたのだ。
適度に空調が効いている筈のこの空間は、しかし眠るには少しだけ寒く、ダークは片方の手で毛布を引き寄せ、彼女の方へそっとかけてから横になった。

「あら、貴方が風邪を引いてしまうわ」

「……この毛布は一人用だ」

「それじゃあ、ひとつになってしまえばいいのね」

彼女はそう言って、更に強くダークへと縋り付いた。彼女の心臓はほんの僅かに早い鼓動を刻んでいた。きっとこれで大丈夫よ、と彼女はまたしても得意気に笑う。
どれだけ肌を寄せ合ったところで、二人が一人になる筈はないのだが、大真面目に彼女はそんなことを言って笑った。
もう既にダークはこの女性に屈していた。だからこれ以上、彼女の言葉に反論する理由はきっとないのだろう。

でも、この体勢だと眠れないわ。そう付け足して彼女は男の背中に回していた手を放し、仰向けになった。
それはもっともなことだとダークが頷くと、バーベナは代わりに男の手を握った。彼女の指から伝わってきた確かな温もりを、ダークは大きな手でそっと包んだ。

「見て」

バーベナのその視線はシーツに落ちていた。彼女の桜色をした髪と、男の白髪がシーツの上に広がり、重なり合っていた。
絵の具を水に溶かしたみたい、と彼女は笑う。
シーツというキャンバスで、彼女の色と彼の色は確かに溶けていたのだ。

「私、ずっとこうしたかったの」

ぽつりと彼女はそう告げ、男は彼女の、穏やかさの中に潜まれた強情な言葉の理由をようやく理解する。
彼女は「こうしたかった」のだ。しかしその理由にまでは辿り着ける筈もなく、男は眉をひそめて「何故だ」と彼女に問い掛けた。

「だって明日には朝がやって来るんですもの」

「……」

「きっと、それと同じことだったのよ。いけない?」

困ったように笑った彼女に、ダークは答えなかった。代わりに握った手の力を強くすると、その柔らかな声音がクスクスと夜を告げた。
明日には朝がやって来るから、だからこうして枕を並べて眠りたい。彼女の不思議な言葉を理解することはまだできなかった。
けれど、そう言われればそうなのかもしれないと、ダークを頷かせるに十分な引力がそこには込められていたのだ。
彼女は毛布を首の位置まで深く被り、繋いだ手をその中に埋めた。そして楽しそうに目を輝かせる。

「さあ、何の話をしましょうか?」

「……本当に眠らないつもりなのか」

「だって貴方を置いて行けないでしょう?」

そんなことを言う彼女に、ダークは少しだけ驚く。
やがて思案の後に、この夜初めての微笑みを浮かべたのだ。

「大丈夫だ。その時は、お前が戻って来るのをここで待つことにしよう」

たとえそれが気の遠くなるような時間だったとしても、構わない。
バーベナはふわりと花を咲かせるように微笑んだ。

「きっと貴方もいつか眠れるようになるわ。その時が来たら、私が夢の中を案内してあげる」

そして、その日は思っていたよりも早く訪れることになる。


2015.2.24
すえさん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました!

© 2024 雨袱紗