手の温度を知っている

りんご飴の甘い匂いが鼻を掠める。人混みの喧騒が淡く空気に溶けていく。
我らが主のお気に入りは、着慣れない浴衣と歩きにくい下駄に悪戦苦闘していた。水色の霞模様が鮮やかな浴衣だ。
帯と下駄の鼻緒は群青色をしていた。目の色に合わせたつもりですかとあのお方は問うだろうか。
そして自ら墓穴を掘ったことに後で気付き、皮肉で誤魔化すのだろうか。
あの少女を前にすると、彼はその冴えた頭を鈍らせるらしい。その正体が何なのか、ダークに知る由もないが。

「だからいつもの服にしろと言ったんです」

そう言った彼だが、しっかりと紺の浴衣を身に纏っているのだから面白い。
「これ、着て下さい」と彼女に浴衣を押し付けられ、渋々袖を通したという風を装った彼をダークはしっかりと見ていた。

シアが立ち上げた会社は軌道に乗りつつあった。
ゲーチス様が帰られた途端にその全権を彼に丸投げしたあの少女は、今度は友達を追ってカロス地方に向かう予定らしい。
彼女が作ったプラズマ団は、あの時と同じメンバーでありながら、今では全く違う空気を纏っていた。
それは彼女や、かつての英雄の尽力の賜物だった。

「ダークさん、こんにちは」

「……バーベナか」

澄んだアルトに振り向くと、一人の女性が立っていた。
プラズマ団に所属し、Nの傍で「愛の女神」として仕えてきた彼女とは、十数年の長い付き合いになる。
今は我々と共に、新興したプラズマ団に戻ってきて働いている。
彼女も我々と同じく、ゲーチス様のお気に入りの尽力により、こうして日の当たる場所に出ることが叶った人物の一人だ。

「もう二人は?」

「アブソルの方はゲーチス様の元に、アキルダーの方は一人で屋台を冷やかしている」

自分の分身をそれぞれ指差し、肩を竦める。
ゲーチス様の側近として集められた我々は、マスクで顔の大半を覆っているため、見分けが付かないように見えるものの、
その外見も、中身も随分と異なる。似ているのは背格好くらいだ。

自分は二人のように、ゲーチス様の持つものを尊敬して付いていくことも、傍に在ることを楽しむこともできない。
それは義務だった。ダークは彼に仕えていなければならなかった。
だからこそ与えられた居場所に在ることが許されるのであり、それを守る為には自己を捨てなければならなかった。

そしてそんな自分を、ジュペッタはいつも嗤っている。

「ふふ、それじゃあ貴方の時間は私が借りようかしら」

そう言って彼女は歩き出した。ダークは自然にその隣に付いて歩いた。

ダークと女神との間には何の隔絶もなかった。
自由を知らず、プラズマ団に存在するしかなかった彼女は、限りなくダークと同じ境遇にある彼女は、しかしN様を愛し、慈しんだ。
誰からも与えられることのなかったであろう愛を、彼女はそっと差し出せるのだ。

だからなのだろう。自分が隣で歩くことを笑顔で喜んでくれるのは。
自分が彼女の後ろに控えることなく、そっと隣に歩を進めてしまうのは。

「プラズマ団も変わりましたね」

「……ああ、何処かの世話焼きのお陰でな」

「でも、貴方、嬉しそう」

端的に紡がれた、その的確な指摘に面食らった。
きっとマスクの下の顔も見抜かれている。それ程長い間、二人は共に閉鎖された時を生きていたのだ。

『誰にも不正を働く権利はないんです。例え不正を働かれた側の人間だとしても。』

かつての英雄はそう言った。
……あの時、少女には無理だと思った。そして、あの少女を選んだのは間違いだったとも思った。
N様という、たった一人の人間により揺らいだこの組織が、彼よりも更に幼い少女の力で変われるものではないと信じていた。
自分達が歩んできたその苦しいものが、たった一人によって覆されることがあってはならないと、そうした自分の為の推測だった。
しかし、プラズマ団は変わった。
たった一人の少女がこれ程までの変化を起こし、これ程までに多くの人の共感を呼んだ。

そこにはいつも、英雄の掲げた理念があった。
「誰にも不正を働く権利はない」という、至極真っ当な、しかしとても難しいその理念だ。

そのカラクリを、ダークは把握していた。
プラズマ団に足りなかったものを誰よりも知っているダークは、その少女が与えたものを誰よりも知っているダークは、
こうなることが必然だったと、今は確かに思えるのだ。

「きっと、これでゲーチスも救われました」

そして彼女は、彼の幸せすらも笑顔で願えるのだ。
どうして自分がその今を否定することができよう。

ちょっと待っていて、と彼女は言い、一つの屋台に駆けていった。
藤色の浴衣に、彼女の髪と同じ色の花が咲いている。紅色の帯が目に眩しい。
巾着からお金を取り出して、目当てのものを購入した彼女は、戻って来るやいなや、背中に隠していたものを掲げてみせた。

「……それは?」

「お面です。私はこっち、貴方はこれ」

えいっという掛け声と共に、黒いお面が額に被せられた。彼女が見つけたのはこれだったらしい。
気に入らなければジュペッタに差し上げて、と笑う彼女の手から、ミジュマルのお面を奪い取って、被せた。

「わっ……」

「俺だけというのはどうにも釈然としない」

他にはどれをしてみたい、と尋ねれば「ヨーヨー釣りはお得意?」と返ってきた。
その手をそっと引く。
折角だ。ゲーチス様のお気に入りが与えてくれたものを、楽しんでみることにしよう。
遠くで下駄の弾む音がした。どうやらあの少女が転んだらしい。
ジュペッタがケタケタと笑った。


2013.9.1
お誕生日のお祝い。
もうすぐ一年のお付き合いになる大好きなお姉さんに、ささやかですが気持ちを込めて。

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