9

3年生になった。だからといって、私の中で何が変わる訳でもなかった。
今年もNを連れてイッシュの家に帰った。お母さんは相変わらず笑顔で出迎えてくれた。
魔法を使わない一ヶ月を過ごした私達は、ホグワーツ特急に乗って再び、あの学びの地へと向かった。

2年の秋に「図書館組」への参入を許されてからというもの、私はあの場所にすっかり夢中になってしまっていた。
早朝のあの場所では、寮も学年も関係ない。誰もが誰もに言いたいことを言い、身分や学年などの垣根を超えて、誰にでも教えを乞える。
そんな楽しい場所で調子に乗った私は、Nや私の家族にのみ開いていた筈の私の「本当の部分」を、立派で優秀な彼等に向けても堂々と、見せた。

私は素行の非常に悪い人間だということ。加えて私は口も悪く、更に足癖も悪いということ。
朝、早起きすることがとても苦手だということ。スリザリンが大嫌いだったこと。周りから期待される自分を演じることにほとほと疲れているということ。
だから此処では何も偽らないし、何も遠慮しないということ。こんな私を嫌いたいならどうぞ勝手にすればいい、ということ。

この図書館組の中で「最年少」かつ「したっぱ」の私のこのような暴言を受けて、彼等は一様に驚き、笑った。
彼等は私が、敬語を使わず粗暴な言葉で話すことを許した。彼等は私が、椅子の上にあぐらをかいて本を読むことを許した。
彼等は私のそうした「好ましくない部分」に幻滅したリしなかった。
私の悪行が苦笑とともに窘められることは多々あったけれど、私が彼等の指摘を受けても自らの素行を正さなかったところで、誰も私を見限らなかった。

ありのままの自分が誰かに受け入れられていく感覚というのは、どうにもこそばゆくて、恥ずかしかった。

『貴方は人の心を余計に拾い過ぎてしまうところがあるから、それできっと、辛い思いをさせてしまったのね。ごめんなさい。』
母が口にしたように、きっと私は深読みと臆病が過ぎたのだろうと思う。
自らの素行が悪いことに「幻滅」していたのは、きっと親でも周りの大人でもなく、私自身だったのだ。
私が勝手に自分の本質を責め続けていたのだ。私が勝手に「こうしなければ周りはきっと幻滅する」と決めつけていたのだ。
そんな無駄なことを、虚しいことを、けれどもきっと私は、ホグワーツでNに「可哀想」と言われなければ、きっと気付くことなどなかったに違いない。

ホグワーツ特急が到着を告げる。駅のホームに足を着ける。重いトランクに浮遊呪文をかけて、アスファルトから3センチほど浮かせる。
指先ですっと押せば、それは真っ直ぐに飛んで行ってくれた。
Nも真似をしてトランクを浮かせる。そこまではよかったのだが、押す力を誤ったらしく、彼の荷物はとんでもない速度でホグワーツへと飛んで行ってしまった。
馬鹿じゃないの、と彼をからかいながら、軽快にアスファルトを蹴って走る。隣を見上げれば、「失敗してしまったよ」と苦笑する彼の横顔がある筈だった。

「……N、どうしたの?」

「……」

「なんでそんなところで突っ立っているの。あんたが飛ばした荷物なのに、どうして私だけがこんなに必死に走っているのよ。腑に落ちないわ」

けれども、その予想は大きく外れた。私の隣にNはいなかった。
トランクに浮遊呪文をかけ、物凄い速度で飛ばしたその位置のまま、アスファルトに縫い付けられたように動かなくなっていたのだ。
ただならぬ表情をしていたので流石に私も不安になり、駆け戻って彼の肩を叩きつつ、ねえどうしたの、と更に尋ねようとした。
けれども彼は杖を持っていない方の手で、私の口を、彼らしからぬ乱暴な所作でぐいと塞いだ。

「静かにしてくれ、声が聞こえる」

声。

「名前が聞こえる。ボクの名前が呼ばれている、それと、」

続きの音を遮るように、派手な地響きがごうごうと鳴った。
駅で談笑していた女子生徒が悲鳴を上げる。男子生徒が我先にとホグワーツの方へ駆け出していく。
Nはそれでもしばらくの間、そこに縫い付けられたように動かなかったが、やがてはっと我に返ったように瞬きを繰り返し、今度は私の手を強く取って、引いた。

この男がこんなにも頼りなく走っているところを、私は見たことがなかった。

彼は「トモダチとよく走っている」というだけあって、足の速さに関しては私よりもずっと上であったのだ。
図書館が閉館してから外に出て、誰もいないだだっ広い芝生の上を競うように駆けることが何度もあったけれど、私がNを追い抜けたことなど滅多になかった。
けれども今は違う。初めに手を引いたのはNの方であったけれど、実際は私が、Nの手を引いていた。私がNを、早く早くと急かしていた。
Nが「何」の声を聴いたのか。こいつは「誰」に名前を呼ばれたのか。この地響きの発端は「何処」にあるのか。
それらを私は一刻も早く解き明かしたかった。このとき、私の足を速めていたのは間違いなく「好奇心」と呼べそうなものであった。

それでもNの足はまっとうに動いてなどくれず、結果として私達は他のどの生徒よりも遅れて、ホグワーツの人だかりに加わることとなった。

白と黒の大きな体が、まるで互いを互いの片割れとするようにぴたりと背中合わせに並んでいた。
3mはありそうなその二匹には、ただ身体の大きなポケモンというだけでは持ち合わせることのできない、得も言われぬ威圧感が付随していた。
魔法界には様々なポケモンが住んでいて、よくホグワーツの敷地内に迷い込んでくるけれど、
この二匹は迷い込んだというよりも、むしろ自ら選んで此処に現れたような、何か目的があってホグワーツの前にやって来たかのような、そうした態度で、
自らの周りを取り囲むホグワーツの生徒たちを、まるで品定めしているかのように、何かを評価しているかのように、静かにじっと見渡していたのだ。

「何、あの二匹。随分と偉そうな態度ね」

偉そう、ではなく、きっと本当に「偉い」ポケモンであったのだろう。だからこそ、生徒も教師も一様に距離を取り、彼等に近付くことができないのだろう。
息を整え、平静を取り戻したと思しきNが、いつものように苦笑しながら「偉そうな態度なら、誰もキミには敵わないと思うよ」と告げてきた。
こいつめ、とその長い髪を引っ張ってやろうとしたとき、人混みの中から私を呼ぶ声がした。
この1年間で飽きる程に耳にしてきた、1つ年上のグリーンの声だった。

「グリーン、1か月ぶりね。夏休みは充実していた?」

「まあまあだな。……って、挨拶のためにお前を呼んだんじゃねえよ。あのトランク、お前とNのものだろう?」

「トランク?」

グリーンの言葉を受けて、私はホグワーツの駅を降りてすぐに浮遊呪文をかけて飛ばした、自らの重いトランクのことを思い出した。
そういえば、あのままホグワーツの方角に飛ばしたままで、私のトランクも、暴走したNのトランクも、まだ回収できていなかったのだった。
そうね、忘れていたわと苦笑する私の腕を、グリーンはぐいと掴み、引いた。
トランクのある場所まで案内してくれるのだろう、などと呑気に考えていると、何故だか彼は私を、人だかりの中央へと向かわせた。

トランクは、そこに在った。
赤い目を持つ、真っ黒い身体のドラゴンポケモン、その足元にあるのはまさしく、私の荷物だった。
そいつはまるでトランクを守るように、自らの両脚の間にトランクを佇ませていたので、私は大きな溜め息を吐きつつ、そいつの元に、歩み寄った。

「ねえ、どいてくれない?あんたがいつまでもそこにいると、私のトランクを取れないの」

その瞬間、周囲の人混みがあまりにも大きなざわめきを立て始めた。
「近付いた」「まさか」「追い返されない」「あいつは?」「スリザリン生だ」「ダイケンキを連れている」「名前は?」「何年生?」
そんな言葉が断片的に私の耳元まで届いた。怪訝そうに眉をひそめて振り返れば、皆が、こちらを見ていた。
私は先程までの豪胆な態度を忘れて、さっと顔を青ざめさせたのだった。
違う、違うと言い聞かせ、私はその黒いポケモンが動くのを待たずに深く屈んで手を伸ばし、鉛のように重いトランクを掴んだ。

「……」

そして私は、見てしまった。
暴走したNのトランクが、もう一匹の白いドラゴンポケモンの足元にあることに。
そのポケモンは、駆け寄ってきたNが口を開くまでもなく、丁寧な態度でそのトランクをそっとNの方へと差し出したことに。
その白いポケモンの、透き通るような青い瞳は、まるであいつを新しい主と見るかのように、穏やかに、恭しく、毅然とした輝きを持っていたことに。

私は、私のトランクを足元に佇ませていた、黒いドラゴンポケモンの目を見ようとした。けれど、できなかった。
もしその目が、あの白いドラゴンポケモンがNに向けたのと全く同じ輝きを宿していたなら、恭しい眼差しを私に向けていたなら、
いよいよ私は、どうすればいいか解らなくなってしまいそうだったからだ。

無名で何の取り柄もない、ただ勉強が好きなだけの「私」が、この得体のしれないドラゴンポケモンの視線に作り変えられてしまうように思われたからだ。

「レシラム」「ゼクロム」と、誰かが囁く声が聞こえる。
確か私の出身地であるイッシュ地方に、そんなポケモンの登場する神話があったような気がする。
もしその名前がこの二匹を表すのなら、まさしくこいつらは「伝説」と呼ぶに相応しい存在である筈だ。

そんな存在が、私みたいな奴のトランクを取り上げようとするなんて、どうかしている。
どうかしているのだ。

今の私にはまだ、どちらがレシラムでどちらがゼクロムは解らなかったけれど、とにかく二匹は全く同じタイミングでホグワーツから飛び立った。
本校舎と各寮を一通り旋回してから、禁じられた森の方角へと向かった。
黒い方の身体は、夕闇に溶けるようにしてすぐに見えなくなった。白い身体はしばらくその気配を残していたけれど、やがて深い森がその形を飲み込んだ。

あの二匹がいなくなっても、私とNを取り囲むざわめきはなくならなかった。
やめろ、やめろ、やめろと心の中で繰り返しても、ざわめきは消えるどころか、むしろ大きさと数を増して、いよいよ私とNとを飲み込もうとしていた。

好き勝手に「私」のことを噂しないでほしい。私とあのドラゴンポケモンを勝手に結び付けないでほしい。私を、装飾しないでほしい。
私の世界に、そんな大層な肩書きも栄誉も要らない。私はNとの世界を静かに回せていればそれでいい。
あの朝の図書館で、ありのままの私を受け入れてくれる優しい場所で、平穏に、楽しく勉強していられれば、それだけでいい。

でもきっとこの群衆は、私の名前を口々に唱えるこいつらは、きっと私がそう在ることを許さない。
世界の全てが、Nのように、あの朝の図書館のように、優しい訳では決してない。
そして私はまだ、この無数の生徒たちに対して、「これが私だ、文句があるなら好きに言うといい」と強気に出ることなどできない。
私はまだそこまで、勇敢ではない。

私を囲むざわめきがひどく恐ろしくて、私の名前を口々に紡ぐ彼等の視線が怖くて、縋るように隣を見上げて「N」と短く呼んだ。
彼の横顔もまた、自らの名前を繰り返す生徒たちに驚きの様相を示しながらも、
けれども何処かで「そう」なることを、すっかり受け入れてしまっている様子であったから、私は堪らなくなって、喚き出したくなって、

「……」

けれどもその実、私という人間は臆病に出来ていたものだから、深く俯いて沈黙し、Nの手を引いてホグワーツの校舎へと逃げ込むことしかできなかったのだ。


2013.9.11

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