6

芝生の上に宿る陽炎が、晩夏の空気をふわふわと揺らしている。今年の夏は一際、暑かった。
夏休みの間に進化したダイケンキは、ホグワーツと駅を隔てる湖に勢いよく飛び込んだ。
その背中に乗り、振り返ってから「ほら」と手を伸ばす。Nは当然のように、私の手を取ってくれた。

夏休み、私はNを自分の家に呼んだ。
それまで、魔法界でしか過ごしたことがなかったという彼に、私の世界を見せてあげたかった。
あちらには一流の魔法使いしかいないけれど、こちらでは魔法を日常的に使う人は滅多にいない。
ポケモントレーナーなら数多くいて、彼等も同様に杖を持っているけれど、
箒に跨って空を飛んだり物を浮かせたりといった、あちらでは日常茶飯事である筈のことが、こちらではまるで「超常現象」のように扱われている。

「キミは今まで、魔法も無しにどうやって過ごしてきたんだい?」

そんなことを真顔で口にするこいつを、魔法の珍しい世界へと連れ出してみたかったのだ。
そういう訳で私は夏休みの間、彼を自分の家に引き込んだ。

彼にこちらの世界を見て欲しかった。こちらの世界のポケモンは、どんな声を彼に訴えるのか知りたかった。
これらは全て私の本心だが、同時に建前でもある。
本当のところでは、私はこちらの世界に一人で帰って来るのを恐れていたのかもしれない。

ホグワーツは居心地がよすぎた。家に帰ればまた、窮屈な私を演じなければならないことを思うと苦痛でならなかったのだ。
しかし夏休みは生徒全員、等しく自宅へと戻らなければならない。
例外として、新入生歓迎委員のメンバーはホグワーツに残って一年生の世話をすることが義務付けられているが、
残念なことに、その参加資格は3年からだった。私は1年、彼は2年。どちらもホグワーツに残る正当な理由を、持たない。

だから、私は少し狡い手段を取った。つまり彼を連れて自宅に乗り込み、彼の前での素の自分をそのまま自然に家族にも曝け出す、という手法だ。
彼の前でなら私は私でいられる。家での「いつも」ではなく、彼との「いつも」のように振る舞うことはそう難しくはなかった。

……自暴自棄になっていた訳ではない。むしろ躊躇った。
私が積み上げてきたものを、此処で簡単に壊してしまっていいのだろうかと、最後まで迷っていた。
きっと母は絶望する。ああ、こんな娘だったのだと、落胆と絶望とを混ぜた目で私の方を見て苦笑するのだ。

それでも良いと思える程に、私はホグワーツで確固たる居場所を持つことができていた。

「あら、トウコがそういう人間だってこと、私はちゃんと知っていたつもりよ」

けれども母はあっけらかんと笑いながら、私の一世一代の大勝負にあまりにも潔く敗北の意を示したのだ。

周囲の期待に応えようとする子だった、と彼女は料理を盛り付けながら口にした。
権利を義務にすり替えて、よく在らなければと自分のルールに雁字搦めになっているようなところがあった、と彼女はNの分のコップを置きながら語った。
本当はどうしたいのか、本当はどうするのが貴方の楽になるのか、いつも考えていた、と彼女は席について小さな溜め息と共に言った。
Nくんみたいな素敵なお友達に会えてよかったと、やっと貴方は貴方らしくいることができるようになったのねと、まるで自分のことのように、喜んだ。

「どんなトウコでも、トウコは変わらずに私の大事な娘だもの。嫌いになんてならないし、幻滅したりもしない」

「……」

「貴方は人の心を余計に拾い過ぎてしまうところがあるから、それできっと、辛い思いをさせてしまったのね。ごめんなさい」

彼女は、突然現れたNに笑顔で微笑み、彼の分のお皿を食器棚から取り出して並べた。
まるでずっと前からNが彼女の息子であったかのように、あらあらと微笑みながら、私とNとを同列に扱った。
そう、こんな調子なのだ。
彼女は、私の母は、何も言わない。何も聞いてはくれない。それでも私は確かに見抜かれていた。彼女は本当の私がこんなにみっともないことを知っていた。
知っていて、それでもいつだって笑っていてくれたのだ。私は今更それを知る。知って、にわかに恥ずかしくなる。

「みっともなくたっていいのよ。私の大事な娘なんだもの」

何故人はこんなにも優しく在れるのだろう。何故私はこんなにも優しい人に、嫌われるかもしれないなどと恐れていたのだろう。
何故、この優しい人の視線が、私に「優秀であることを強いている」というように見てしまっていたのだろう。
少なくとも母においては、私はきっと、恐れすぎていただけだったのだ。私は幼い頃からずっとずっと、しなくてもいい処世術を尽くし続けてきたのだ。
そんな下らないこと、でもきっとNをこの家に連れ込まなければ、「下らない」とさえ気付けなかったようなことを、私はずっと、ずっと。

「Nくんも、私のことをお母さんだと思ってくれていいからね。さあ、召し上がれ」

湯気の立つカレーをお皿に注いで、彼女はいつものように微笑んだ。私は笑うことができなかった。でも笑えなくてもいいのだと思えた。
彼女は私に「笑うこと」など期待していないのだと、彼女は私が何をしようとも「裏切られた」などと思わないのだと、気が付いたからだ。

「聖母のようなヒトだったね」

ホグワーツに向かう列車の中で、彼はそう呟いた。
それが私の母のことを指していることに気付いた私は、肩を竦めつつ「ええ、否定はしないわ」と返して苦笑した。

「お母さんは皆、ああいうものなのかい?」

「知らないわよ、私はお母さんになったことがないし、私のお母さんはあの人だけなんだから」

しかし彼女が私やNに向ける笑顔は、私にも覚えのある、馴染み深いものであるような気がした。
それは丁度、目の前でゾロアの頭を撫でるNの姿にも重なるように思われて、私は「ああ」と大きく頷いた。

「ああいう人種の「慈しみ」ってのはきっと、私達が自分のパートナーを思う気持ちに似ているのかもしれないわ」

それは仮説でしかなかったが、いずれ私が大人になれば解ることだ。今はきっとまだ解らなくていい。
私は縮小呪文で小さくしたダイケンキに、百味ビーンズを与えた。
赤色の比較的美味しそうなものをあげたつもりだったのだけれど、もぐもぐと咀嚼する彼にはとても嫌そうな顔をされてしまった。
向かいでNが苦笑する。

「唐辛子味に当たったそうだよ」

「あらら、ごめんね」

ダイケンキを宥めてから、私も一粒口に放り込む。……微妙な味だ、青くて苦い草の匂いが鼻につく。おそらくキャベツ味だろう。
美味しかったかい、と尋ねる彼に、私は少しだけ驚きつつ苦笑した。

「私、ちゃんと嫌な顔をしたでしょう。これが美味しいものを食べた時の顔に見えるの?」

そう言うと、彼はその細長い腕を組んで考え込む素振りをしたまま、長く、とても長く沈黙していた。
早口と饒舌を信条としているかのような、賑やかな彼らしからぬ振る舞いに、私は少しばかり面食らう。

「キミのお母さんが、キミはヒトの心を拾い過ぎると言っていたね」

「……そうね」

「キミにはヒトの声が聞こえるのかい?」

その言葉にはとてつもない違和感があった。
あんたにも聞こえるでしょうと尋ねると、彼はそうじゃなくて、と首を振った。

「さっきの「美味しくない」という声を、キミは発しなかっただろう」

「!」

「ヒトは声に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせるから厄介だね」

その奇妙な言葉を、私はきっと一生忘れられないのだろうと思えた。
こいつの言葉が「まとも」であったことの方が少ないけれど、それでもこの言葉がいよいよ彼を象徴する名句であるように思われたのだった。

彼は嘘を吐くことを知らない。彼は私の言葉に不信感を抱いたりしない。彼はポケモンの声を疑わない。彼は人の表情から気持ちを汲み取る術を知らない。
どこまでも人の形をしながら、その心はどこまでも人らしくなかった。
人とポケモンの隔たり、私と彼との溝、それらの深すぎる隔絶は私の胸に確かな陰りを落とした。

私が私らしく在ることは確かに私を幸福にした。
けれども彼が彼らしく在り続けることは、まだ必ずしも幸いなことではないのかもしれなかった。


2013.9.10

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