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さて、とても困ったことが起きている。
……いや、正確には「困ったことが起きていない」ということに、困っている。

「ゼクロム、ちょっと、世界の危機とやらはいつやって来るのよ?災厄も、天変地異も、何も起きない、平和なホグワーツのままじゃないの」

トウコ、その言い方だとまるでキミが、この世界に壊れてほしがっているようだよ」

Nは苦笑してそう告げるけれど、私だって、みだりにこの世界が荒れてほしい訳では決してなかった。
けれど私はそのために、このゼクロムに選ばれていた筈だ。
ホグワーツ、ひいては魔法界に訪れる危機に立ち向かうため、人とポケモンの力を合わせて乗り越えるため、
そのために私は、この大層な曰くの付いたポケモンを、30cmの大きさにして自らの肩に乗せて歩くことを選んだ筈であった。

にもかかわらず、あれから2年が経とうとしているというのに、その「危機」とやらは一向にやって来る気配を見せないのだ。

勿論、このホグワーツには3か月と空けずに、ありとあらゆるトラブルが発生していた。
迷い込んだカイオーガのせいで本校舎や寮の1階部分が浸水したり、クディッチの暴れ玉が制御できない状態になって大勢の負傷者を出したり……。
確かにそうしたトラブルの際にも私達、及びレシラムやゼクロムが先陣を切って生徒たちを取りまとめていた。
……しかしそれらはどう考えても、伝説のポケモンの力を借りなければ切り抜けられない事態には程遠いように思われたのだ。

危機は、いつやって来るのだろう。明日だろうか、来月だろうか、あるいはもっと先だろうか。
そんな風に思い、ずっと警戒して肩を強張らせ続けるには、2年という時間はあまりにも長く、
それは私達、所謂「図書館組」に、平和ボケに似た現象をもたらすには十分な期間であったのだ。
レシラムを連れたNも、スイクンを連れたクリスさんも、サンダーを連れたグリーンも、
どんなポケモンを連れているのか全く分からないけれど、とにかく「招かれた」ことは確実であるらしいレッドも、
……つまり私達全員が、すっかりこの平和な日常に慣れ切ってしまっていて、警戒心をもうすっかり手放してしまっている、という有様であった。

そしてそんな怠惰な私達を、ゼクロムもレシラムもスイクンもサンダーも、責めなかった。
私達を「招いた」ポケモン達もまた、今はまだその時ではないことを本能的に解っているかのようであった。

この2年足らずの間、私はゼクロムを隠すことなく、小さくしたまま私の肩に乗せて、何処へ行くにも連れ回した。
グリフィンドールの席で食事をした。朝の図書館にもほぼ休みなく通った。
許される側であった私は上級生になり、クリスさんの紹介で彼女の妹と知り合った。
クリスさんが私にしてくれたような、鮮やかな導き方では決してなかったけれど、
それでも彼女の妹が抱える荷物を強引に奪い取ることが、ほんの少しだけでもできていたのだと、思いたい。
Nもまた、彼女の妹が特別親しくしていた赤い髪の少年と「友達」になった。寮も学年も違う4人だったけれど、私達は妙に気が合った。

とまあ、そういった具合に、私は私のままで在り続けていた。
周りはそうした私を見て、好き勝手な評価を鋭くきつく下したけれど、構わなかった。構わないと思えた。だって、私は。
私は。

『でも君は近付いた。ぼく等はそうやって招かれてきた。』
『特別な存在に招かれるってのは、そんなに悪いものじゃないぜ。』
私よりもずっと早い段階で大きすぎる力を携え、その理念と覚悟を息をするような自然な心地で「気丈に」紡いだ二人のことを、覚えている。

トウコさん、君の恐れはとても利己的で、身勝手なものだよ。解っているよね?君はいつまでも「後輩」や「生徒」ではいられないんだ。
君が友人や家族や先輩に許されたように、君も周りを受け入れることを覚えなければいけないよ。』
いつまでも許される側で在ることはできないのだという、全うな正論で私の背筋を「悲しく」伸ばした先生のことを、覚えている。

『貴方は周りを変えることなんてできない。だから貴方も、周りに変えられちゃいけない。』
下らない視線に、低俗な声に、変えられる必要は何処にもないのだと、「優しく」私を諭した彼女のことを、覚えている。

『ボクにできるのは、トモダチに「招かれたキミ」を「招かれたボクとキミ」にすることだけだ。』
ただ隣にいる、そこにいてくれるという「当然の」事実だけで、私の心を救い上げてくれた、かけがえのない片割れのことを、覚えている。

そして、こんな私の腕の中に生まれてきてくれた最愛のパートナーと、こんな私を招いた神話上の存在のことを、いつでも覚えている。

彼等がいつだって私を激励している。私を叱咤している。私を許している。私を救っている。私を見ている。
こんな私を、野蛮だと、みっともないと、ゼクロムに相応しくないと、そうしたいのなら勝手にすればいい。私はもう怖くない。


ほら、見なさい。これが私よ!


朝の図書館で、私は一枚の写真を彼の眼前に示してにっこりと笑った。
ウツギ先生は「おや、トウコさんの知り合いかな?」などと軽く首を捻っているけれど、
おそらく私の言おうとしていることが分かっているのだろう、その笑顔が僅かに引きつっているような気がした。

「この子がシアよ。魔法使いの才能のない、所謂「マグル」の家系なんだけど、お母さんがいたくポケモンに興味を持ったらしくてね。
独学で勉強してポケモンへの理解を深めて、トレーナーとしての素質を後天的に得たの。この子も両親に似て、とても努力家で勉強熱心だわ」

「わあ、トウコちゃんの後輩なの?私にも見せて」

クリスさんがそんな声と共に大きな本からぐいと顔を上げ、私が示した写真を覗き込んだ。
私の4つ年下にあたるその小さな女の子は、写真の中で制止して、じっとこちらを見つめていた。
マグルの家系に「動く写真」など存在しないから、当然のことであるのだけれど、
もう何年も魔法界で過ごしてきた私には、やはり写真が「動かない」というのは少しばかり、違和感がある。
それはクリスさんも同じだったようで、彼女はその写真を見つめたまましばらく固まってしまっていた。

「この子は、何歳かな?」

「11歳。この秋からホグワーツの1年生になることができる年齢よ。
きっと優秀な魔法使いになるわ。地方のホグワーツ分校でポケモントレーナーとして育てるには惜しい人材だと、あんたも思うでしょう?
ああ、誰かホグワーツ本校にシアを推薦してくれないかなあ。どこかの偉い図書館長様が、推薦状の一枚でも書いてくれたりしないかなあ!」

「その偉い図書館長を半ば脅しにかかるなんて、トウコさんも随分と勇敢になったものだね」

そう、この曲者を極めたウツギ先生は2年前、誰よりも「招かれる」ことを拒んでいた私の手にダークストーンを押し付けたのだ。
ゼクロムのことは嫌いではない。周りが好き勝手に向ける視線や声にもすっかり慣れた。
駄々っ子のように「嫌」と拒んでいたあの頃よりも、私はずっと強く、勇敢になった。きっとこの変化は、招かれなければ訪れなかったものだ。
しかしそれと、私がこの先生を許せるかどうかというのはまた別の話だ。

彼がホグワーツの先生として、あるいは彼自身のエゴとして、私とゼクロムを結ぼうとしたのなら、
私だって、可愛い後輩の成長を願う先輩として、また私自身のエゴとして、あの子とホグワーツを結ぼうとすることだって許されて然るべきだ。
そしてそのために、私はこの男を利用する。それだけの知恵と勇気が今の私にはある。

『私達を利用してやろうとする狡いウツギ先生のことは、私達が逆に利用してしまえばいいのよ。』
クリスさんの言っていた言葉を、ついに実行するときがやってきたのだ。嫌だとは言わせない。言わせてたまるか。

にっこりと口元だけ笑いながら、私はウツギ先生を睨み上げた。
彼は長い沈黙を置き、その果てに大きな溜め息を吐いてから、諦めたように弱く笑って「分かったよ」と了承の意を示してくれた。

「推薦しておこう。イッシュ地方、ヒオウギシティのシアだね。寮は……もしかして君と一緒のところがいいのかな」

「それを決めるのは私でもあんたでもなくて、あのドーブルでしょう?」

「そうだね。ただ、自分の配属寮が気に入らなくて、へそを曲げてしまう新入生が稀にいるものだから、少し心配になっただけなんだよ」

……もしかしたらこいつは、私が1年生の頃に緑色のネクタイを締めていなかったことを覚えているのかもしれない。
大っぴらに「スリザリンなんか嫌いだ」と口にしたことはなかったけれど、Nの前でしかそういう態度は取っていなかった筈だけれど、
それでも彼はずっと、あの頃の不機嫌そうな私を、誰にも心を許さず、誰にも許されていなかった頃の私を、見ていたのかもしれない。
私は、私が気付いていなかっただけで、ずっと前からこういう狡い大人に、許され続けていたのかもしれない。

「……あんたのそういうところ、嫌いじゃないわよ」と、少しばかり茫然とした心地でぽつりと口にすれば、
彼は人畜無害そうな風にニコニコと微笑みながら「おや」と少しばかり驚いたような心地でことんと首を捻った。

「それは……少し君らしくないね。いつもの君なら大袈裟に眉をひそめて「あんたのそういうところ、大嫌いよ」と言うのではないのかい?」

「殊勝なことをたまに口走る私は、あんたの信用に値しないかしら?」

彼は大きな声で笑いながら「まさか!」と否定し、度のきつそうな分厚い眼鏡のレンズの奥、優しい瞳をすっと細めてから、

「強くなったね、トウコさん」

と、まるで成長した子供を感慨深く思う父のような心地で、告げた。


2017.12.31

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