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自分で言うのも変だけれど、私はそれなりに「優秀」な子供だった筈だ。
親に反抗もしないし、危ない場所に遊びに行くこともない。部屋で本を読むのが好きな、ごく普通の優等生。
それが私に期待されてきた「私」の姿だった。これからもそうあるのだと思っていたし、このままずっと演じきれるのだと思っていた。

しかし入学式の夜、絵筆を尻尾に持ったおかしなポケモンは、この優等生をどういう訳か「スリザリン」に送った。
当然のように、私は自分の配属寮を「レイブンクロー」だとばかり思っていた。勤勉かつ真面目な私のスケッチブックは、青い絵の具で塗られる筈だった。
それなのに、スリザリンだなんて。狡猾な者が集うと名高い、あの寮の一員になってしまったなんて。

……解せない。
どうしても納得がいかなくて、私はネクタイを締めぬままに生活をした。スリザリンの色である緑を、私は悉く私の身体から排してきた。

スリザリンに一匹狼はそれ程珍しくない。おかげで変に目立つこともなく毎日を過ごすことができた。
図書館は無駄に広く、時間を潰すには十分だった。活字に疲れた時は早朝や夜に外に出て、一人で箒に跨り静かな空を爆走して楽しんだ。
寮の人間は「家族」だなんていう人がいるけれど、それは違う。少なくとも私はそんな風には思えない。
だって、それなら私は、生まれた場所を恨み、家族を憎んでいるということになる。
それは甚だ優等生らしからぬ行為であり、いよいよ「私」に相応しくなかった。

だから私は、スリザリンの生徒であることを辞めた。

彼と出会ったのは、そんな時だった。

図書館は私の逃げ場であった。勉強も読書もそこそこ好きだったし、自分の寮を拒み、一匹狼を選んだ私には、この場所は居心地が良過ぎた。
レイブンクローの生徒が多いことも、殊更に私を安心させた。まるで自分も彼等の仲間であるような、そうしためでたい錯覚さえ起こすことができたからだ。

……今だからこそ思えることなのだけれど、スリザリンをそれ程までに嫌悪すべき理由などなかったのだろう。
ただ、自分が予測していた自分を、あの変なポケモンに裏切られただけの話だ。私の自己分析が、甘すぎただけの話だ。

お前は狡猾な人間だと、あのポケモン、ドーブルは、優等生である私を捕まえてそう言った。あの緑の絵がそれを克明に示していた。
何も知らない癖に、あんたに何が解るっていうのよ。何も知らない癖に、何も、何も。
そうした憤りを思い出しつつ、私は本を乱暴に棚へと戻した。

悔しかった。ドーブルが私のことを盛大に誤解しているという事実にではない。
あのドーブルの方が、どういう訳だか、私のことを私以上に鋭く見抜いているという、その事実がどうしようもなく悔しかったのだ。
目を背けてきたことを乱暴に突き付けてくる、あの緑色が許せなかった。
ああ、もう誤魔化せないところまできているのだと、そう認めてしまうのがどうしても嫌だった。

実のところ、昔から、外と内との隔絶を感じてはいたのだ。
「偉いね」と褒められる度に胸が軋んだ。「いい子だね」と称賛される度にひどく虚しくなった。
「優等生」に見られていると知りながら、「優等生」で在れていると認識していながら、けれども本当はそうでないことに気付いていた。

無理をしている、というのではない。本を読むのは好きだ。勉強も苦ではない。
けれど、そうしたものが私を装飾し、勝手に「私」を作っていくことに、私はほとほとうんざりしていた。

「偉い子」は寝坊してはいけないの?「優等生」は乱暴な言葉遣いをしてはいけないの?
何があっても許してあげなければいけないの?大丈夫だよと笑ってあげなければいけないの?
私はそんなこと、したくなかった。私が好きなのは勉強であり、本であり、規律に従うことでも、模範的に振る舞うことでもなかった。
にもかかわらず、周囲は、世間は、大人は、どういう訳だか勉強が好きな私に、礼儀正しく在ることを、模範的で在ることを、期待した。

それでも、偽るのは得意だ。そうすることに慣れていた。期待に応える振りをするのだって造作もなかった。
私の心はそれを拒んでいたけれど、そうした本音を隠して私はお利口に振る舞い続けてきた。
だから私は「優等生」なのだ。此処でもそう在れるのだと思っていた。

……それなのに、たった一度の組分けが、今までの私の努力を無情にもバッサリと切り落としたのだ。
「お前は狡猾な人間だよ」「醜い本音を腹の中に飼っている狡い子だよ」と、見透かすようにあの緑色が嗤ったのだ。

私は今までの誤魔化しが通じなくなったことに怯えていた。あんな一匹のポケモンに見抜かれてしまったという事実が悔しく、恐ろしかった。
スリザリンのネクタイを締めている限り、皆は私のことを「優等生」ではなく「狡猾な少女」としか見てはくれない。
笑えてしまうことに、当時の私は本当にそう信じ切っていた。そうした私の妄信が、私自身を恐怖へと突き落とした。
恐ろしかった。だから逃げた。一人の時間は、ただ穏やかだった。

休日の午後、生徒の大半は外出していて、ホグワーツに、ましてや図書館にいる物好きな人間は本当に少ない。
そのような場所において、私のすぐ近くの席に座って本を読んでいた、その背の高い緑の髪の青年はとても目立っていた。
その彼が、私と全く同じタイミングで席を立ち、私の数歩後ろを付いてくるものだから、私は驚き、戸惑ってしまった。

「あの、私に何か用事ですか?」

図書館を出て、外に出て、生い茂る芝生の青い匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、私はくるりと振り返り、尋ねた。

「大丈夫かい?」

けれども彼は私への用事ではなく、私への気遣いを言葉にした。
この人は何をもって、私のことを「大丈夫ではないのかもしれない」などと思ったのだろう。私のどんな姿が、彼に「大丈夫かい」などと思わしめたのだろう。
初対面の人にそのようなことを尋ねられるなんて、と思いながら、私はその青年を正面からまじまじと見つめた。

私よりも3歳、もしくは4歳くらい、年上かもしれない。背中に流れる若草色の髪は、ほどいてしまえば腰くらいまでありそうだ。
私の髪とどちらが長いのだろう。そんなことを考えていると、青年は私の足元を指差した。

「大丈夫かいって、カレが言っているよ」

そこには私のパートナーであるミジュマルがいて、二つの丸い瞳が私を案じるように、私を気遣うように、こちらを見つめていた。
青年は私の言葉を待つように、色素の薄い瞳を大きく見開いて沈黙した。
カレ、がミジュマルのことを指していることに気付いた私は、肩を竦めて笑った。
随分と不思議なことを言う人だと、この瞬間は良くも悪くもなくただ純粋にそう思えていたのだ。

「随分、便利な魔法を持っているんですね」

ポケモンの想いを汲み取れる魔法なんて、私がこれまで読んできたどんな本の中にも書かれていなかった。
この優秀な先輩に教えを乞うてみようかしら。そうすれば私の学校生活も、少しは楽しくなってくれるかもしれない。
しかし彼は落胆したように肩を落とし、「ああ、やはりキミにも聞こえていなかったのだね」と告げて、その目をすっと、細めた。

「可哀想に」

パチン!と、その瞬間、私の中の何かが音を立てて弾けた。
気が付くと私は彼に掴みかかっていて、芝生の上に押し倒して、その華奢な体躯に馬乗りになっていた。
此処に幼馴染みがいたら、悲しげな表情を浮かべただろう。此処に母がいたら、なんてことをと目に涙を浮かべて私を叱っただろう。
動揺と落胆とを織り交ぜながら、トウコでもそんなことをするんだねと嗤っただろう。

知ったことか。構わない、構わない!だってもう私は優等生ではない。だって私はもう自身の本質を隠せない!


「私は可哀想なんかじゃない!解ったような口をきかないで!」


この青年に対してではなかった筈の、あらゆる怒りが混ぜこぜになって勢いよく放たれた。
何も知らない癖に、私のことを憐れむなんて、なんてデリカシーに欠ける人なのだろう!

そんなことにばかり憤っていた私は、彼が何をもって私のことを「可哀想」としたのかを、考えることをすっかり放棄していた。
彼は私にもっと別の憐れみを向けていたのだと、しかし私はこの時知ることができなかった。
きっと当時の彼に言葉を尽くされたところで、理解することさえ拒んだだろう。
それ程に私は頭に血が上っていた。今、彼が此処で沈黙しているのをいいことに、私の全てを吐き出さなければ気が狂ってしまいそうだった。

しかし彼は私の暴挙に気分を害した様子を見せず、むしろ嬉しそうに目を細め、微笑んだ。

「やっと元気になったね」

「……え、」

「ほら、カレも嬉しそうだ」

彼に掴みかかった拍子に頭から転がり落ちたミジュマルが、芝生の上で本当に嬉しそうに笑っている。


2013.9.8
2014.12(修正)

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